【23】ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』第1回レジュメ

J=L・ナンシー 無為の共同体 講読ゼミ 小林作成資料

第一回 無為の共同体 

 まだ第一部しか読んでいないが、おそらく本書における著者の力点は、最初の本文1ページ目、ページ数でいうところの5ページ目に、ほとんどすべてが凝縮されている。日本とフランス、あるいはヨーロッパという風土や文化の違いから生まれる視点の違い、世界の見方の違いなども含めて、本書を読み解くには必須の個所だと思われるので、細かく区切りながら見ていきたい。

 現代世界に関する証言のうち最も重要で最も苦痛にみちたもの、いかなる命令あるいは必然性によってかはわからないが(というのも、われわれはまた歴史という思考の枯渇をも確認しているからだ)、ともかくこの時代が果たすべきものとして負わされたさまざまな証言のうちで、おそらく他のいっさいを包括しているもの、それは共同体の崩壊、解体、あるいはその焚滅をめぐる証言である。

 本書本文は、「現代の社会で最も重要で最も苦痛にみちたもの」でも「現代に関する証言」でもなく、「現代世界」に関する「証言」について、確信を持ってはじめられる。筆者が認識の足場にしているのは、広く見積もってもフランスを中心に、ロシアから中東、そしてアフリカ北部あたりを包む範囲だと思われる。けれど、この本の最初には「現代世界」という必要があったし、そういえるはずだという確信をもって書き出していると感じる。

 その確信とあたり前のようにくっついているのが「証言」で、ここで「証言」とくるのは、本書が真正面から取り上げている「共同体」や、共同体を構成する個人、を認識する仕方と結びついていて、全体を通して感じる人の存在感の強さもそこからきている。世界とは人間が作っているものであり、それゆえ、人が集まってつくる共同体は「世界」の全てを包むものとして疑う余地はない。だからおそらく、「共同体の崩壊、解体、あるいはその焚滅」という言葉は、ぼくたちが聞くのとは全く違う重みや危機感を持った響きを持っているのだと思う。

 サルトルが言ったように、共産主義は「われわれの時代の乗り越え不可能な地平」である。彼はこれを政治的、イデオロギー的、戦略的と代わるがわるさまざまな意味合いで語ったが、それらの意味はいささかも次のような事柄——もっともそれはサルトルの意図とはおそらく多分に無縁なものだが―に触れるものではなかった。

 「現代世界」の問題をあつかうのに、サルトルが当然のように出てくるのはだから、「共同体」=世界を包むもの、について、少なくとも共同体の持つ可能性を共産主義という立場から最も深く考えた人物がサルトルだからで、この「共産主義」という言葉も、「国家の統治方法や政治的な立場の一形態」といったぼくたちのイメージから大きくそれていて、おそらく、19世紀から20世紀にかけてこれ以上ない「共同体」の在り方の理想だと信じられ、それが砕けた今も、それを超えるような共同体の在り方を描くことができないような、「究極の共同体の在り方」を示すような言葉だと思われる。

 それは「共産主義」という語には、様々な社会的分裂の彼方に、また技術-政治の支配に対する隷属の彼方に、したがってまた、私有化の排他的な秩序に従属することでただちに開始される、自由やことばや素朴な幸福の衰退の彼方に、そしてさらにはより単純でしかもより決定的なものとして、各人の死の発育不全、つまりは死がもはや個人の死でしかないために支え切れない重みを似ない無意味さのなかに崩れ落ちていく、そうした死の発育不全の彼方に、共同体のありうべき場を見出そうあるいは再発見しようという願望が、表徴されているということである。

 ここでいわれている前半は、いわゆる一般的な共産主義の理想が指す方向を示していて、「死の発育不全」以降が、本書の核心部分になっている。世界を「個人」の集まりとして捉える見方の限界を示しているのと同時に、その限界の彼方に、「共同体のありうべき場」を見出すような「語」(言葉)としての「共産主義」について、サルトルも触れていない、ということは、まだだれも触れていないから、ここで私(著者)が書きますよ、ということだ。

 ただ、煩雑な手続きと、哲学用語の中にちりばめられた妙にオシャレないいまわし、「情熱の狂奔」とか「内在の夜の脱自的意識」が邪魔をして、くどくどとうんざりする説明を聞かされる気分になる。そして、人の存在感が強すぎて、読んでいると人酔いしそうになったり、「至高性」とか「合一」とかがあたり前のようにでてきて、バタイユが「合一的存在への郷愁が死の営みへの欲望に他ならない」[32]と言った、と言われてもちょっと無理がないか、と思ってしまう。

 ところが、著者のギリギリのところで、確かさをつかみながら文字を書いていったような妙な迫力を持った文章は、単なる西洋的な哲学とか宗教的な思考、にとどまらず、世の東西を問わないレベルまでつきぬける。キリスト教的な「絶-対者」という存在の矛盾をつき、死の持っている個別性・独自性を足がかりに、そうした人間的存在がつくる共同体という順路を通って、分有と特異存在という概念にたどりつき、共-出現する共同体というイメージに至る。人間存在が全く個別の存在で、その単独性・唯一性こそが逆に他者との類似点だ、というのは禅宗に強く影を残している仏教的な思想に近い。

 たんなる翻訳でなく、解説までしてくれている訳者たちが、こうした正確な著者の視界を、細かいところまで再現してくれているのも本書の魅力で、特に面白かった「分有」の項目を下記に残しておく。「分割」が非人称という表現にやっぱりつかみにくさを感じるけれど、生まれること死ぬことの個別性が人間誰もがもっていることを別の角度から言っていて、それを分割といってしまえる思考的な手つきに、馴染みが薄くてややこしい。

(50)(中略)ここで「分有」の訳をあてたのは〈partage〉である。ただ、この語は「人と何かを分かち持つ」といった、主体的な関係をはじめから意味しているのではない。少なくともナンシーの概念としては、ひとまず「分かつこと」「分割」という単純な語義に帰ったほうがよい。その際問題になるのは、人称的な誰かが何かを「分割する」というのではなく、「分割」という非人称の出来事によって複数の誰かたりうるものが生ずるといった事態だ。「分割」はあるものを複数に分離するが、それは単なる「分離」ではなく、分離がそのまま結合と不可分であるようなあり方を作り出す。言いかえればそれは、分離する境界そのものが分離されたものを結びつけているような、複数の存在のあり方を生み出すのだ。翻って複数の存在が「分割」という境界を分かち合うことになる。そしてこの「分かち合い」が、それぞれの存在の複数的な成立の契機となるのだ。そうした含みで「分有」を読んでほしい。




第1回 J=L・ナンシー著 『無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考』
2017年2月11日(土) 山根澪 

第一部 無為の共同体(46ページ7行目まで)


最初の言葉、

現代世界に関する証言のうち最も重要で苦痛に満ちたもの、いかなる命令あるいは必然性によってなのかはわからないが(略)、とにかくこの時代が果たすべきものとして負わされた証言のうちで、おそらく他のいっさいを包括しているもの、それは共同体の崩壊、解体、あるいはその焚滅をめぐる証言である。[5]

「無為の共同体」という言葉を聞いたとき、これは自分とはあまり縁がなさそうだ、と感じた。そして、この言葉に込められた迫力もフランスという日本とは遠い国・文化でのことからか、実感がわかないと思った。読み進めて、それは個人主義的に絶対者的に生きてきたからではないかと思った。「共同体」とは自分とは無縁、少なくとも縁の薄いものだと思い込んでいた。「絶対者の論理は絶対者に暴力を振るう」[10]ともあるけれど、こう共同体というものに興味が持てないということも暴力のひとつなのかもしれない。個人主義、共産主義が大きく取り上げられたが、主に個人主義的なことに関して気になるところを抜いた。

■絶対者の矛盾


絶‐対者の論理は、それが関係を欠いている以上、つねに同じものであり続けるだろう。(略)あるいは絶対的に単独であるためには、私が単独であるだけでは不十分であって、そのうえさらに私が独力で単独であるのでなければならない。これはまぎれもない矛盾である。絶対者の論理は絶対者に暴力を振るう。[10]

「個性的であろうとする人は一様だ。」というのは大谷隆氏の痛烈な批判としてよく覚えている。これは個性的であろうとすることは個性的であろうとすることに全力を投じるにも関わらず、その一点を一蹴する。個性的つまり絶対者であろうとすることは、ナンシーが言うように「関係を欠いている以上」同じ論理しか辿れない。だから、例え実際の表現が一見多様であろうとも、絶対者であろうとする様子は一様になってしまう。その上、「独力で単独であるのではならない」から他から学ぶ道も自分から阻害傾向にあるように思う。そもそも、何故絶対者になろうという意識を持つのか、その意識を単独で持つわけはなく、もちろん矛盾してるんだけど。

■保留中のもの、個人というテーマについて、一つの身体とは、一つのエクリチュールとは

個人というテーマの背後に、けれどもそれを越えて単独性への問いが隠されているということはありうる。一つの身体とは何か、一つの顔とは、一つの声とは、一つの死とは、一つのエクリチュールとは何なのか‐分割できないわけではない単独のこれらのものは何なのか。(略)(単独性は)同一化しえないクリナメンの次元に場をもつのである。それは脱自と関わっている。とはいえ脱自‐恍惚には主体がない以上、単独存在が脱自‐恍惚の主体であるなどと述べることはできまい。そうではなく、脱自‐恍惚(共同体)が単独存在へ出来するのだとのべねばならない。

単独というものがどのように語られるのか(絶対に対する問いの正確な裏面)が気になる。

■「失われた共同体という幻想」


(ルソー(1712-1778)から、あるいはキリスト教的共同体の分裂から)われわれに至るまで、歴史は失われた‐再発見ないし再構築すべき‐共同体を基盤として考えられたことになるだろう。[18]

共同体の思想あるいは願望は、それゆえ近代の経験の過剰な現実に対応しようとして、後になってから編み出されたものにすぎないということも十分になりうる。[21]

その(われわれの)身の上に「社会的絆」(諸関係、コミュニケーション)という自らの編み出したものが、罠の網-経済的、技術的、政治的、文化的-のように重くのしかかっている。そこに絡みとられて身動きならないわれわれは、失われた共同体という幻想をつくりあげたのだ。[23]

失われた共同体は幻想だ、ということにびっくりし、結構長い間喪失し、そのことへの言及があったことにも驚いた。今となっては、失われた共同体があった時期と想定してしまうくらい古い時代。

■死について、そして我を失うということ


個人主義であるにせよ共産主義であるにせよ、人間主義の想定する完成した人間とは、死んだ人間である。つまり、そこでは死は、有限性のはらむ制御しえない過剰ではなく、内在性の無限の完成なのである。[25]近代は人間たちとその共同体の時間を、死が本来もつはずの-そして死が執拗にもっている-度外れな意味が最終的に失われてしまう不死の合一の中に閉じ込めてようと血道をあげてきたのである。[26]

共同体とはその「成員」に、彼らが死すべきものだという真実を呈示するものにほかならない。[29]

同胞が死んでいくのをみたら我を失う[自己の外に投げ出される](略)そのとき狭い人格の枠から追い出され、同胞たちとの共同体のなかにあたうる限りおのれを失う。[29]凡庸な人間は、ひがな一日ほとんど無に等しい生の強度をもって過ごすにすぎない。そんな人間は、まるで死が存在しないかのように振る舞い、悔いることもなく自分以下の水準に止まったままでいる。[30](以上の2つはバタイユからの引用)

バタイユの文章にびっくりさせられた。生きているということと本当に矛盾するけれど、死だけでなく、ある種自分が誰かから影響を受けない強度というものを得ようとしてきたような気がする。それは生きながら全く影響を受けない死んだような、行きつく先は死んだ人間ということだろうか。

■分有のコニュニケーション


この諸々の特異存在は、それら自身が分有から構成されているのであり、それらを他者たちとする分有をとおして配分され位置づけられ、あるいはむしろ空間化されているのである。他者たちというのは、互いにとって他者であり、それらの融合の主体にとって無限に他者である、そうした他者たちのことだ。そしてその主体はといえば、分有のうちに、分有の脱自のうちに沈み落ちてゆく‐「合一し」ないそのことによって「通じ合い」ながら。この「コニュニケーションの場」は、そこでひとが一方から他方へ移行するにもかかわらず、もはや融合の場ではない。その場はおのれの脱‐臼[位置を取り外すこと]をとおして規定され露呈されている。したがって、分有のコミュニケーションとは、この脱‐臼そのもののことであるだろう。[45-46]

何かを見、聞き、読むことで、刻々と同じ人ではいられなくなる。

バタイユは、共同体の現代的体験、すなわち生み出すべき作品でもなく、失われた合一でもなく、外の、<自己の外>の体験の空間それ自体であり、その空間化にほかならないものとしての共同体を最初に体験した。[35]

共同体にいるのではなく、共同体は体験するものなのか。そして、共同体への認識が変わることでどういった共同体を体験するかが変化するということは考えたことがなかった。




『無為の共同体』ゼミ 第一回 第一部前半(p5-p46)

北村紗知子
p7—p8 

 だがまさしく人間の人間に対する内在、あるいはさらに、絶対的に、すぐれて内在的存在であるとみなされた人間こそが、共同体の思考にとって躓きの石となっている。人間たちの共同体であるべきものとしてあらかじめ想定された共同体は、それ自体が、人間たちの共同体としてそれ自体の本質を総体的に実現する、あるいは実現するはずだということをあらかじめ想定している。そして、そこで言われるそれ自体の本質とは、人間の本質を成就することなのである。(…)そうなると、経済的絆、技術的営為、そして政治的融合(…)が、必然的にそれら自体によってこの本質を体現するというよりむしろ呈示し、露呈し、現実化していくのである。この本質はそこで作動させられ、それ自身の製作物となる。それはわれわれが「全体主義」と呼んでいるものだが、たぶんそれは「内在主義」と呼ばれるほうがいいだろう。おそらくこの呼称は、ある特定のタイプの社会や体制にだけあてはめるべきものではなく、この際そこに、民主主義的諸政体やその脆弱な法的枠取りを囲繞している、われわれの時代の全般的な地平をみてとるべきなのだろうから。
共産主義、全体主義が、人間の本質が個人の中に内在するという内在主義的人間観を前提としている、とナンシーは指摘している。内在主義とは、人間の本質が人間に内在している、という考え方。共産主義も全体主義も、共同体とは、人間の本質を(それと、相反するものではなく、むしろ)体現するものでなければならない、という理想を持っている。

共産主義、全体主義はそのイデオロギーが引き起こした惨事から否定されているが、その前提となっている内在主義は健在である。

 私たちが、内在主義的人間観でいる間は、全体主義的な地平のなかにいる、ともいえる。

この内在性の思考こそが、共同体の思考を頓挫させている、というのがナンシーの見方である。哲学はハイデガーまで、つねに内在性の思考、主体の思考であったため、共同体は失われたどころか、一度も思考されたことはない。内在性の思考の極として、ヘーゲルの絶対者があげられている。バタイユによる「絶対者という考え方自体に矛盾がある」という指摘をナンシーは支持している。絶対者が、独力で単独である、というのは、あらゆる別の事物から切り離されていることを想定しているにもかかわらず、そもそも別の事物などない、と言っているに等しい。そうではなく、存在が、全体に関連付けられる関係こそが共同体である。共同体は自己の外にある。

p29
 共同体とはその「成員」に、彼らが死すべき者だという真実を提示するものにほかならない(つまり不死の者たちの共同体などないということだ。不死の者たちの社会なり合一なりは想定しうるとしても、その共同体を想定することはできない)。それは有限性と有限な存在を形造っている寄る辺ない過剰との、言いかえれば死とそして誕生との呈示そのものなのである。ただ共同体だけが私の誕生を私に呈示し、そして私がそれを超えて遡ることも、また死を飛び越えることもできないというその不可能性を私に呈示する。

 他者の死に際して、生きている者は「我を失う」=自己の外に投げ出される(=脱自)。それを引き受けるのが共同体である。

 内在主義的な共同体とは、生産する主体が、共同して生産する、という意味から、営為の共同体であった。そこには合一のモチーフがつきまとう。

 内在主義を否定しているナンシーの考える共同体は、無為の共同体である。そして、共同体から出来するもの、として存在を捉えている。



2017年2月11日 大谷

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』ゼミ第1回レジュメ

第1部 無為の共同体(前半p46まで)

ナンシーは「共同体について思考する」ということをやろうとしている。なぜならそれはこれまで正当になされて来なかったから。いかになされてこなかったかが書かれている。共同体という言葉に僕が持っている近代的な感じは、西欧ではどうやら違うようだ。

〈共同体〉あるいは〈共同性〉というテーマは長いあいだある種の偏見につきまとわれてきた。今でもそうである。ひとつにはまず、このテーマが〈近代〉(ないしは〈近代化〉)によって克服されるべきとみなされた古いタイプの結びつきを想起させるということであり、そこでは故人の遺志や自由よりも全体への統合を優先させる力が働いていると考えられている。[279(訳者あとがき)]

あえて日本語で言えば「原子力村(ムラ)」という時の「村(ムラ)」や「うちのシマをあらしやがって」というときの「シマ(縄張り)」等、一体感と排他性を含んだ語として「共同体」はある。従って「共同体」は西欧では近代における人と人の結びつきの希薄化への批判の文脈で「戻るべき姿」としての前近代を彷彿とさせる民族主義的・保守的な使われ方もしている。

1 現代における「地平」

だがまさしく人間の人間に対する内在、あるいはさらに、絶対的に、すぐれて内在的存在であるとみなされた人間こそが、共同体の思考にとっての躓きの石となっている。人間たちの共同体であるべきものとしてあらかじめ想定された共同体は、それ自体が、人間たちの共同体としてそれ自体の本質を総体的に実現する、あるいは実現するはずだということをあらかじめ想定している。そして、そこで言われるそれ自体の本質とは、人間の本質を成就することなのである。そうなると経済的絆、技術的営為、そして政治的融合が、必然的にそれら自体によってこの本質を体現するというよりむしろ呈示し、露呈し、現実化していくのである。この本質はそこで作動させられ、それ自身の製作物となる。それはわれわれが「全体主義」と呼んでいるものだが、たぶんそれは「内在主義」と呼ばれる方がいいだろう。(略)われわれの時代の全般的な地平をみてとるべきなのだろうから。[7-8]

「共同体」の本質が「人間の本質を成就する」という「製作物」であるという認識が現代における地平であり、この意味において「乗り越え不可能」。

2 個人主義の矛盾

「個人(分割しえないもの)=絶ー対者」という前提に起因する矛盾がある。

絶対的に分離されたものは、いわばその分離のうちに単に分離されたものというより以上のものを閉じ込めるのだということ、つまり、分離それ自体が閉じ込められねばならないということ、閉鎖は単に一つの領土の上に閉じられるだけでなく、閉鎖そのものの上に閉じられて、分離の「絶対性」を完成しなければならないということである。絶対者が絶対者であるためには、それ自身の絶対性が絶対的でなければならないし、そうでなければ絶対者は存在しない。あるいは絶対的に単独であるためには、私が単独であるだけでは不十分であって、そのうえさらに私が独力で単独であるのでなければならない。これはまぎれもない矛盾である。[8]
訳者はより噛み砕いて近代的意識のパラドクスとして書く。

誰もが「私」の個別性を意識するようになるが、その「私」は実は誰とも区別されない多数のうちのひとつにすぎず、人々が自分の個別性を意識すればするほど、その個の無差別性に気づかざるをえないという状況(略)。個別主体の絶対化が、「私」のかぎりない凡庸化を招来する。それが産業社会を背景にした近代的意識のパラドクス[281]

3 バタイユの着目点

バタイユはこの矛盾を「裂け目」として認識し、その問に「脱自ー恍惚」を答える。

脱自ー恍惚は、絶対者の絶対性の不可能性、完結した内在の「絶対的な」不可能性に答えるものである。(略)脱自とは、いかなる形の流溢を定義するものでもなく、ましてや天啓に浴した沸騰状態のようなものを定義しているものでもない。それは絶対的内在たるものの、したがって精確な意味での個人性と、同時にまた純粋な集団的全体性との、存在論的、認識形而上学的不可能性を厳密に定義づけているのである。[13]

ナンシーはこの「不可能性」を「共同体の問い」として取り上げ、
共同体、あるいは存在それ自体の脱自的ー存在とは?[14]

と問う。ナンシーにとっては、人の存在と共同体に根源にまつわる問いは同時に解かれるという意識がある。そしてこの問いそのものが問われてこなかったことに対するイラつきがある。

共同体に関する諸々の倫理や政治や哲学は、そのようなものがあったときでも、それ自身の道をつまりは人間主義のうちに安んじて埋没する道を辿るばかりで、これらの特異な声たちが実は共同体について語っており、おそらくただそれについてしか語っていないということに、そこでは「文学的」ないしは「美的」とみなされる体験が共同体の試練のうちにとらえられ、その試練と格闘しているのだということに、一瞬たりとも思い至ろうとしなかったのだ。[16]
つまり共同体のあり方からこぼれ落ちる「個的な」ものを「芸術」「文学」として人間主義的に回収していくのではなく、共同体そのものへの問いとして捉え直さなければいけない。そもそもそういう問いなのだというのがナンシーの問題意識だろう。


4 (宗教)共同体の解体という近代的幻想

ナンシーは(宗教)共同体は、近代以前は存在していたが近代以降に失われたのではなく、そもそも「失われた共同体という幻想」だけがあり、前時代にはあったなんらかの絆の消失に過ぎず、共同体は近代以前にもなかった(問われたことはなかった)と言いたい。のだと思う。

共同体に関して「失われた」ものーー合一の内在性と親密性ーーとは、そのような「喪失」が「共同体」そのものを成り立たせているという意味においてのみ、失われたのである。(改行)それは喪失とは言えない。なぜなら内在は反対に、もしそれが生起すれば共同体あるいはコミュニケーションをそのものとしてたちどころに抹消してしまうだろう当のものだからである。[23]
しかしわかりにくい(p18から22あたりが特に)ので仮定的に次のように考えてみる。

僕達がなんらかの喪失感を持ったとき「以前はあったはずのものが失われた」と感じる。共同体に関して言えば「以前はあったはずの絆」の喪失で、この喪失感は〈あとから〉「ということは、あのときは共同体があった」という類的な記憶になる(その頃生まれていなくても、漠然と抱く「昔はよかった」的記憶としてある)。しかし「あのとき」の時点に実際にあったのは、なんらかの「社会的絆」である。つまり「失われた(過去形)」ことそのものが「共同体」という幻想を成り立たせている。その意味でのみ「合一の内在性と親密性」は失われた。そして、その実際に失われたものは「われわれが「社会」と呼ぶものとも、「共同体」と呼ぶものともおそらく関係をもっていなかった何ものかーー部族あるいは帝国ーー」でしかない。そして、この「失われ(てしまっ)た共同体という幻想」にまつわる人々の不安(「失われた合一への郷愁」)を、近代的に解消しようとして裏切ったのが現実に存在した共産主義体制であり、前近代的に解消しようとして出現してしまったのがファシズムである。と。つまり、宗教、地域、血筋、経済的絆などなどによって共同体があったというけれど、それはただ同じ宗教、同じ地域、同じ血筋、同じ経済的絆があった集団ということであって、それがなぜ共同体という実感を持つものなのかということについて答えていない。何かしらの共通項の存在の有無はともかく、そもそも人と人が共同体という実感を持つのはなぜなのか?を問うことで、共産主義の裏切りやファシズムへの転落を乗り越えた現代の地平が開ける。というのがナンシーの意図ではないか。

5 死と共同体と分有

ナンシーが問おうとしている共同体は、同一の属性を持つことを根拠にしない。「私は死ぬことができない(自分の死として死ねない)」ことから、

共同体とはその「成員」に、彼らが死すべき者だという真実を呈示するものにほかならない。それは有限性と、有限な存在を形作っている寄る辺ない過剰との、言いかえれば死とそして誕生との呈示そのものなのである。ただ共同体だけが私の誕生を私に呈示し、そして私がそれを越えて遡ることも、また死を跳び越えることもできないというその不可能性を私に呈示する。[29]
この不可能性にバタイユは気がついていた。しかしバタイユが脱自ー恍惚として「体験」しつつも共産主義とファシズムを目の当たりにして諦めた共同体への思考をナンシーは引き継ぐ。

つまり彼が断念したのは、共同体を思考すること、そして共同体の分有を、そして分有のうちにある至高性、あるいは分有された至高性、またいくつかの現存在の間で、主体ではない特異な実存たちの間で分有された至高性を思考することである。この特異な実存の関係ーー分有そのものなのだがーーは合一でも対象[客体]の我有化でも自己認識でもなく、通常理解されるような主体間のコミュニケーションでさえない。しかし、この諸々の特異存在は、それら自身が分有から構成されているのであり、それらを他者たちとする分有をとおして配分され位置づけられ、あるいはむしろ空間化されているのである。他者たちというのは、互いにとって他者であり、それらの融合の主体にとって無限に他者である、そうした他者たちのことだ。そしてその主体はといえば、分有のうちに、分有の脱自のうちに沈み落ちてゆくーー「合一し」ないそのことによって「通い合い」ながら。[45-46]
(訳者あとがき[283-286のあたり]の助けを借りると)

だれも自分で生まれず、自分で死なない。死と誕生は他者が告げる。自分が「生まれ、死ぬ」そのことを呈示する「こと自体」をナンシーは共同体の基底に据える。この他者とは誰にとっても他者であり、すべての人を融合した主体を想定してもなお他者である。そして誕生と死という人の限界(人にとって誕生前と死後は「その人にとって世界の外」)は、人の存在を決定的に分離し、同時に他者と他者として人を直接結びつける(通い合う)。これを分有と呼ぶ。

ナンシーは、「共同体」という言葉をたどり、共同体という思考を開くことで、人の存在そのものの見え方を変質させようとしている。自分の誕生と死というのは、自分の世界の外側にあるもの、この世界には無いもの。つまり内在しない(超越する)。しかし「無い」からといって考えずにすますことはできない。なぜなら他者の誕生と死を目撃している。これは実は誕生と死だけにとどまらない。誕生と死は極限として共同体を成立させているもので、誕生と死のように、自分がそうであるということを他者によって告げられるしかないということをお互いに持ち合っているというイメージ(「どうしてこの人は僕しか知らないことを書いているのか。僕も今読んではじめて気がついたのに」)は、あとの章で共同体が〈文学〉によって「書かれ、読まれる」ということにつながっていく感じがある。その人の世界の外側へ突出する意識として「書き」、自分の世界にはなかったものが出来したとして「読む」ということを考えると、ナンシーに従って言えば「言語の営み」は極めて純粋に共同体の営みである。のかも。
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