【22】『ためらいの倫理学』第2回レジュメ

第二回 内田樹 「ためらいの倫理学」講読ゼミ 配布資料  作成:小林

◯当為と機能の語法

 引用した文献について、使われている言葉の数を根拠に自分の主張を通していく様子を見ながら「これは流石に強引なんじゃないか」と思っていたら、追記があってびっくりした。そして面白かった。

 内田自身も自身の他者に迫る手つきについて自覚的だというところに、さすがだと思う反面、分かっていながらこういうことを繰り返してしまうのはなぜだろうという問いが浮かんだ。

 ぼくの見解では、それは自分の主張を通そうとするあり方からきている。ここで引用されている文章を読んだ時にぼくが感じるのは、「必死さ」だった。それは捉え方によっては内田の言うとおり他者に迫るような圧迫感のあるものにもなるけれど、それよりもぼくが気になったのは「なぜこの人はこんなにも必死になっているのだろうか」ということだった。

 おそらく、そこが見えない限りは、内田の言うとおり何処までも両者の主張合戦は続けられる。


◯現代思想のセントバーナード犬 と 「矛盾」と書けない大学生

 たぶん偶然だろうけれど、かろうじて別のテーマに分類されているけれど、この2つを並べたことに編集者のセンスを感じる。

 引用しているラカンの文章と音楽情報誌のコラムの解説の違いが内田の立場を鮮やかに語っている。

 セントバーナードの方では、そもそも分かろうとすることがボタンの掛け違い、と言い、大学生の方では単語の一つ一つの意味なんかどうだっていい。ノリのよい文章を読んで、気分が良くなることを求めているから、読み飛ばしが若者にとって普通になっている、という。

 内田は、ラカンについては、「これまでの経験」とか「以前に」と書いてあるから初めて読む人用じゃないことがわかるとしているが、音楽情報誌にも「彼らを覚えているかな?」「覚えてる?」と、わざわざハテナまでつけて以前に読んだ人への呼びかけが記されている。

 ちょうどこの時期、僕自身も大学生だったけれど、音楽情報誌のコラムは今でも理解はできないし、周りに理解できる友人の顔は思い浮かばんない。かろうじて一人、海外の音楽に造詣の深い友人が思い浮かぶ程度で、だとすると、このコラムも、ラカン並みにその情報を読むことを欲した人に対して書いているのではないだろうか。

 と書いていてなんとなく虚しくなってくるのは、その文章の中である種の説得力をもって自分の感じたことを説明しきれれば、内田にとってそれはどちらでもいいことなんだろうな、と思うからだ。

 だから、これほど分かりやすく矛盾している文章を書き、本にすることができる。

 内田がいいたいのはそういった、材料として使っているあれこれの事例や引用の正否ではなく、最初に表明した違和感や最後に結論としてまとめている個所で、主張に至る道筋を正しく辿る腕は確かで、それが内田の文章の安定感や安心感を産んでいるのだと思う。

 けれど、そこから見えるのは内田がよく知っている視界でしかない。
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