【20】吉本隆明『心的現象論序説』第4回 レジュメ

5/22 第4回 吉本隆明「心的現象論序説」講読ゼミ 配布資料(作成:小林健司)

Ⅵ 心的現象としての夢


夢が本質的に[186 1行目]〜状態を意味している。[187 7行目]

この章に入って最初の夢の定義をしていく手つきには熟練の職人の手さばきをみるように鮮やかな印象を受ける。さらに、ここで登場する、身体の外部の世界に対する「受容」と身体の内部で生じる「了解」という概念は、それぞれ空間と時間に対応した知覚の表現だといえる。

夢の内部では特定の空間化度と時間化度に対応する意味だけが存在し、夢の外では特定の空間化度と時間化度をのぞいたすべての空間化度と時間化度にみあった多義的な意味性が流れることになる。で夢は〈入眠〉時の心的領域にあらわれた〈満たされた空孔〉という比喩によってあらわすことができる。(中略)しかも〈入眠〉時の心的領域は、とうぜん特別な構造をもっている。特定の空間化度をのぞいて〈受容〉の空間性は、時間的な構造(擬似了解)に転化され、特定の時間化度をのぞいて〈了解〉の時間性は、空間的な構造(擬似受容)に転化されているからである。[199]

 夢の逆立性とでもいうこの個所が非常に「了解」しにくい。対応した記述には190ページの「〈わたし〉がその風景の形像を夢にみながら、同時に夢のなかでその夢の形像をなんとなく〈了解〉しているといった心的な体験をやっている。」という文章がある。

 受容される像を作り出しているものと、その像を了解するものが、どちらも個人の心的領域という同一の根拠を持っているという、マジカルな状況が生み出しているのが夢だから、そのメカニズムを説明する場合には、状況に輪をかけてマジカルなものになる。

 吉本は、片側からづつ説明するから、特定の空間性以外が時間性となり・・・という説明をするが、実際には、夢のなかで「形になって」「了解している」という心的領域は、融け合って渾然一体となっているから、引用した最初の文章でほとんど全てが語られている。さらに、「特定の空間化度」「特定の時間化度」、と「それ以外」のような表現をしているので、二元論的に捉えたくなるが、これも必ず反転しているというよりも、自然界では空間化度の高く受容されるものとして現れるものの中に、身体内部で了解されるような領域のものが混ざっていたり、その逆があり、覚醒時に見る自然の世界とは反転しているような現象が多々ある、という理解で良いと思う。


Ⅶ 心像論

未開人では感性的な世界は、かれらにとって世界の全部である。そこで感性にやってこない世界は、大なり小なり彼岸の世界であり、この彼岸の世界からやってくるとみなされるすべての事象は、かれらには人格化された〈自然〉、あるいは物神化された〈自然〉によってもたらされたものとみなされる。そしてこの人格化された、あるいは物神化された〈自然〉の意思によってもたらされたものは、未開人にとって〈心像〉の対象である。この場合未開人の〈心像〉は、むしろ〈幻覚〉に似ている。なぜならばかれらにとって〈自然〉の意志によって作為された体験にほかならないからである[245]

現代に最も近い時代で「未開人」の感性を持っていたと思われるのは、南北朝の動乱の以前に日本列島に住んでいた土着の民族だろう。感性的な世界を中心に生きる人には、現代人が感じ取れない部分まで「自然」から受け取る「情報量」が多かっただろうし、身体的に了解できる感覚の種類や大きさも違っただろうと思われる。しかし、考想察知現象について「体験によらずに、知的な概念によって構成された想像力の作用と、本質的には異ならないように思われる」[278]としているように、おそらく、知的な積み重ねによって同じ状況を作ることが可能だと思われる。技術の進歩が、いわゆる超能力的な現象を確実に引き起こせる現代と重なる。

現代人には、非感性的な世界は、非感性的な意識によって手のとどく世界である。(中略)この(間接的な関係づけによって得られる)自由さは、感性的な意識を大なり小なりギセイにして得られる自由である、という意味では、たんなる恣意性にすぎないが、この恣意性が、物的な感性的な世界の不自由さや制約の代償としてはじめて得られる拡大された心的世界とみれば、ただ心的世界においてのみ手に入れた自由さであるという意味で、貴重品を預けられているのだ。 [245]

わたしたちが直接的な一重の〈関係づけ〉をなしうる世界(外界)は、感性的、知覚的な世界である。これにたいし、間接的な多重な〈関係づけ〉をやっている世界(外界)は、概念的な了解の世界である。そうだとすれば〈心像〉の意識がもたらす世界(外界)は、概念的な世界を感性的な世界へと跳躍させようとする断層の構造を意味しており、概念的な作用と感性的(知覚的)作用とのあいだの〈関係づけ〉の矛盾にほかならないといえる。[248]

自分に引きつけて言い直せば、「心像」とは「未開の時代に持っていた感性的な関係付の名残り」だとえる。何もしなくても感性的な世界を共有できる時代が終わり、その代償として心的世界はそれ以前の時代よりも格段に拡大された自由を得ることになった。現代は、拡大された個人の心的世界と、未開時代より格段に限定されてしまった感性的に、個人の意思の力によって架橋をかけるような時代である。

心的な世界に疎遠な対象ほど過剰に引き寄せられるとすれば、この対象はじぶんに強制しているとか命令しているとかいう対象とかんがえるよりほかに術がないからである。また、親密な対象ほど心的な世界から遠ざけようとするとすれば、対象とのあいだに正常な相互了解(相互規定)が成立する条件は、はじめから排除されることになり、ここでも強制とか命令とかいう作為体験によってしか関係をもちえないはずである。(改行)過剰な圧迫としてしか対象世界はやってこないし、しかも正常な関係づけの条件がすべて排除されているとすれば、心的な世界は対象世界から作為性をうけとるよりほかない。[258-259]

吉本は、異常や病的な事例から、上記について説明しているが、いわゆる「正常」な個体同士の間にも上記のような、「引き寄せ」に近い現象は生じている。たとえば、正常な関係づけが不可能であると判断された関係において、対象となる人物から作為性を受け取るということは、日常的にやっていることだろう。何度注意しても止めないから嫌がらせをしているのだ、とか、何回聞いても自分に満足のいかない応答しかしないので自分を認めていないのだ、など。

正常な心的世界が、対象の世界にたいしていつも自由な選択性をもっているようにみえるとしたら、それは意思の恣意性にもとづいている。[265]

さらっとかいているけれど、こういう状態を「悟り」というのだろう。

妄想的再現は、本質的には心的に構成された世界と、現実の世界が地続きであるという識知にねざしている。(中略)世界がこのようにみえるかぎり、たんに妄想的な再現が現実の場面の再現として識知されるばかりでなく、逆に妄想的な再現のとおりに、現実の場面が成就することも可能と考えられたのである。[279]

これも、異常や病的な事例、というところから説明しているが、「部分的」であれば、現代に生きるほとんどの人が、妄想的再現をしている。おそらく「お金」にまつわる認識が代表的なもので本当はお金の問題ではないのに、「お金があるから幸せだ」とか「お金がないから不幸せだ」という心的な世界と現実の経済面とが地続きであるということはだれにでもある。
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