【20】吉本隆明『心的現象論序説』第3回 レジュメ

5/22 第3回 吉本隆明「心的現象論序説」講読ゼミ 配布資料(作成:小林健司)

Ⅳ 心的現象としての感情


□感情とは

〈わたし〉の心は、ほんらい〈時間〉として了解すべき判断を〈空間〉として作動させているのである。[130]

〈感情〉は心的な触覚や心的な味覚や心的な嗅覚であるかのように存在することができるが、けっして心的な視覚や心的な聴覚であるかのように存在することはない。[130]

対象についての心的な状態を、本来の対象とする〈感情〉[131]

 「ほんらい時間として了解すべき判断」という言い回しはわかりにくい。時間化度、空間化度、は自己表出と指示表出のようにどちらか一方として認識されるものではなく、グラデーションのようにどちらの属性が強いかという傾向にすぎない。純粋な時間だけを体験することや、純粋な空間だけを体験することは概念的にはありえても、心的な体験としては想定しがたい。

 時間性と空間性は、身体内部の知覚、身体外部の知覚、と言いかえることも出来る気がしていて、そうすると身体内部の知覚といえども外部環境と連動しているし、身体外部の知覚はもちろん知覚しているのだから最小限でも感覚器官においては内部との連動がある、という意味になる。

 吉本は感情について、身体の内部と外部の接触点、もしくは接触して融和してしまった領域のように捉えていて、何かに触れて「ふわふわしている」とか、「ザラザラしている」というように、対象について触れるように感じている状態を感情と定義している。


□中性の感情

この〈中性〉感情は〈好く〉という〈感情〉からの質的な転化というべきで、その転化の構造は〈好く〉という〈感情〉を、心的な了解の時間性におきかえ、これをふたたび空間化して〈感情〉の対象にしてえられるような新たな〈感情〉を意味している。それゆえ、このばあい〈好く〉という〈感情〉を了解し、これを空間化するとちょうどその度合に応じて、〈感情〉の空間性は〈遠隔〉化するものとかんがえられる。[148]

いうまでもなく〈好く〉から〈好かぬ〉という大局的な〈感情〉への転化が可能となるのは、その過程に〈遠隔〉化された〈中性〉の〈感情〉が介在しているからである。なぜならば、この〈遠隔〉化された〈中性〉感情では〈好く〉という〈感情〉自体が、ひとたびは了解作用に転化されるために、それ自身で〈感情〉の〈身体〉化の仮象を呈し、ふたたびこれを空間化するにさいして〈好かぬ〉に転化するか、深化された〈好く〉に転化するかは恣意的になりうるからである。[148]

 触れるようにして感じるような「感情」を繰り返し体験していくことで、「触れている体験」自体が外在化するようになり、吉本の例に続ければ「好くという体験(をしている感覚)」自体が、空間化=少し距離をとって見たり聞いたりできる状態になっていく。

 ありていにいえば「慣れる」ということ。自分の理解のために「好く」という体験の変容について書いてみる。

 最初にある異性を好きになる。このときには、意中の異性だけが視界にある。次に、その状態が繰り返されたり継続する中で、その人を好きである自分というものが視界に入ってくる。つまり感情が中性化されて、「好くという体験をしていること自体」が空間化する。

 このとき、「好くという体験をしていること」と、理性的に「きっと無理だろう」とか「相手も好きなんじゃないか」とか「嫌われているかもしれない」などの考えが巡り、その後の行動は個人の意思によって変化していく。そして、今度はそういった状況や自分が好きでいた体験も含めて、嫌いになったり、深化された好くという感情に転化する。


2016年5月22日 資料・発表:大谷隆 


Ⅳ 心的現象としての感情


〈感情〉の本質はなんであるのか? 少し丁寧に順を追って僕なりに理解していく過程を試しに平行して書き出してみる。

いま〈わたし〉が知覚一般の時とおなじに対象を措定しているとすれば、〈わたし〉は対象を〈了解〉しているのである。しかし、〈感情〉において〈わたし〉は対象物そのものを措定しているのではなく、〈この対象は好感がもてる〉あるいは〈この対象は虫が好かない〉という属性を含めた対象を措定しているのである。

〈了解〉は、平たく言えば「そうだと思う」というようなこと。「疎外」は、 自分の外に出てしまい、自分ではどうにもできなくなるというようなこと。
知覚と同様のことが感情でも起こっているのだとすると、対象への好感や嫌悪という属性を含めてその対象を知覚するように感情が発生しているとなる。

そうだとすれば、〈感情〉作用のばあい、対象にたいして先験的に〈好感がもてる〉とか〈虫が好かない〉という判断をもっていて、しかるのちその判断的対象を措定するのであろうか?

だとしたら、「予め」好きとか嫌いという判断をもっていて、その「あと」でその対象を措定しているのか。


こういう〈感情〉の理解が正しいとすれば、ある対象についての〈感情〉は、先験的に対象にたいする〈感情〉を含んでいるものを対象とするという矛盾に陥ることになる。これは不合理である。


そうだとしたら、その対象が好きか嫌いかという〈感情〉を対象を見る前に予め判断していていることになる。これはおかしい。


そこでわたしたちは、〈感情〉においては、本来〈時間〉性として存在する心的な了解作用が、〈空間〉性として疎外されているものと考える。

そこで、〈感情〉においては、本来は「そう(好きとか嫌い)だと思う」という時間的順序が、その対象が「自分にとってそう(好きとか嫌い)である」ものとして、自己ではどうにもならない状態になっていると考える。

だから、〈好感がもてる〉とか〈虫が好かない〉とかいう〈判断〉が先験的にあるのではなく、判断作用にとって必ず必要とされる心的な了解の〈時間〉性が、〈空間〉化されているため、〈感情〉においては、対象を受容するための心的な〈空間〉化と、空間化された了解作用とが二重にからまって、対象を措定しているとかんがえるのである。(第7図)

だから、〈好感がもてる〉とか〈虫が好かない〉とかいう〈判断〉が予めあるのではなく、判断するのに必要な心的な「そうだと思う」という時間性が、「自分にとってそうである」というふうに〈空間〉化されているため、〈感情〉においては、単に対象物そのものを対象としてとらえる〈空間〉化と、「自分にとってそうである」という〈空間〉化された〈時間〉性とが二重にからまって、対象を措定していると考える。

第7図の斜めの実線が、知覚の場合は垂直線だったものが、水平方向に倒れているため、〈感情〉としての心的領域が押しつぶされている。
そのため、実際の知覚では「あばた」が、〈感情〉では「えくぼ(という好ましいもの)」にまで歪みうる。

心的な了解の時間性が空間性として疎外されるような、対象についての心的領域を感情とよぶ。

心的な「そうだと思う」という了解の時間性が、「自分にとってそうである」というふうに空間性として疎外されるような、対象についての心的領域を感情とよぶ。


V 心的現象としての発語および失語


同じことを繰り返して〈くどく〉しゃべる、というのは僕にもよくあって、面白い。
このばあいあきらかに〈くどく〉なるのは、発語した瞬間にじぶんの言葉が〈忘却〉されるためではない。(略)〈くどく〉なるのはあくまでも自己にとって自己の発言の〈概念〉が所定の了解の水準をもちえないためである。じぶんの発言が〈他者〉へ伝達されたかどうか不安になるのは、あくまでも自身にとって発語の〈概念〉が所定の時間的な度合いで了解できないためである。

酔った時は不安になって繰り返す、という場合も多いが、自分にとってそれが思った以上の了解の水準を持ってしまって、もう一度確かめる、というようなときもある。
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