【20】吉本隆明『心的現象論序説』第1回 レジュメ

2016/04/24 配布資料 作成:小林健司

■はしがき


(言語学者、外国文学者、外国哲学者からの反響を受けて)
〈もともとこの領域はきみたち自身がやるべきものなのだ。もしできるならやってみせてくれ。それだけわたしの手間ははぶけるのだから。〉 
〈きみたち自身がそれをなしうるだけの水準と思想に達しないかぎり、専門外の一文学者がきみたちの領域に進入する不快さを耐えるべきである。ようするにきみたちにはわたしのもっているなにかが欠けているのだ〉

かっこいい。本当にかっこいい。しかし本文はかっこよさへのあこがれだけでは到底読み解けないほど硬い。

以下、自分の理解の押さえとして、レジュメを作ります。

Ⅰ 心的世界の叙述


(だれにでもある体験として)〈じぶんがいまこう心でおもっていることをたれも知らないし、また、たれも理解することはできない〉
(異常や病的な行動を判断する他者は)ただその行動に一定の累計があることが、経験上分かっており、累計された知識によってその個体を一定の〈異常〉または〈病的〉なタイプに属するものときめるだけである。

心的現象は、外界からの影響を受ける(外界を知覚することで、対応する心的な現象が起こる)構造をもつが、その構造は、身体や外界と関連付けて理解することができない=独立している証明がここからはじまる。

・(自分の身体を見たりすることと、石垣を眺めることを対比して)わたしは外界の無機的な自然物をみているのと同じように、わたしの〈身体〉をみている。

・(火災のときに、身体と焔をみるときを例に)わたしの〈心〉は、このとき、わたしの〈身体〉に向うときと、身近かに迫っている焔に向けられるときと、まったく異質なものに引き裂かれる。
・(空想や想像をするとき)このときわたしの〈心〉は、わたしの〈身体〉と外界の現実との二つから疎外された錯合した幻想領域をもっているということができる。

これらを根拠に吉本は、「わたしたちが〈心〉と〈身体〉とを対応によって関係させようとする記述を不当なものとかんがえる理由のひとつは、わたしたちの〈心〉にたいして〈身体〉という外界と〈外的現実〉という環界は、かならずしも同一の根拠をあたえないということにある。」という、ひとまずの結論を出す。この文章自体はわかりにくいが、先を読んでいくと、身体にも外的現実にも対応させることができないことを、どこまでも堅実に言おうとしていることが分かる。

生命体は(中略)無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打消として存在している。

このいずれの意味でも生命体は、外側を無機的自然に開き、内側を〈身体〉に開くひとつの混沌とした心的領域を形成している。たとえば、原生動物では、この心的領域は、心的というよりも、たんに外界への触知にともなう無定形な反射運動にすぎないが、人間では心的領域といいうる不可触のあるひろがりをもった領域を形成している。フロイドが〈エス〉と名づけたものは、この原生的な疎外の心的内容であると考えられる。

生きることは死を含んでいる、ということを、無機的自然からの異和・疎外=生と、その打消=死と、わざわざ難しい表現しているここから、すでにフロイドの理論へ迫る道のりが始まっている。

エスは我々の人格の暗いー近寄りがたいー部分であります。(中略)エスにおける諸過程には、論理的思考法則ー殊に矛盾律ーは通用いたしません。反対の動きが並び存し、しかも互に差引き零になったり、一部を取り合いしたりすることなく、せいぜいエネルギーを搬出せしめんとする支配的な経済的脅迫のもとに、協力して妥協を形成するに過ぎません。(中略)エスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません、すなわち時の経過の承認というところがありません(中略)時の経過による精神過程の変化ということがないのです。

原生的疎外の心的内容(死を含んだ生・全体性としての生きる存在として持つ心的現象)について、「暗く」「近寄りがたい」とし、「論理や時間観念が通用しない」という記述からは、網野善彦の「無縁」を想起する。人間の存在を(たとえそれが成長や発展に向かうものとしても)管理・把握するものと見る場合には、そういった一定の方向性を全く持たない「エス」は、手のつけられない「無縁の輩」に近いイメージだと言える。

(人間の誕生から、生物体としての成長過程における、心身の発達を指して)このような心身の完成までの過程が、生物体としての遺伝的な要素とともに、青春期までの養育者、教育者、環境的な思考法の伝達者である親、あるいは第一次的な他者としての家族、生活環境としての社会、そして歴史的現在としての文化圏の現存生によって決定的に影響されることはあきらかである。これが個々の人間によってその精神的な素因と生理的な素質が個別的であるとともに、ある本来的なまた時代的な共通性をもつようになる理由である。
吉本は、フロイドが想定した人間の心身の一般的な発達過程を認める。しかし

フロイドの考察にしたがえば、人間の存在は〈性〉的にも心的にも完成された時、生理的にも精神的にも、系統的な遡行しうるかぎりの生物体の全歴史を凝縮した存在とかんがえなければならなくなる。逆にいえば、〈性〉的にも精神的にも存在しうる〈異常〉あるいは〈病的〉な現象は、この前歴史のいずれかの次期への退行あるいは最もちかい対象(近親相姦的な対象)への退行とむすびつけられなければならない。

として、その一般的な発達過程に押し戻して、人間の存在を分析することは不可能だとする。

人間の原生的に疎外された心的な領域を、他の一切の高等生物と隔てている特質は、心的な領域をもつこと自体ではなく、心的な領域をもつという心的な領域をもっている(精神を精神する)点に求められる。 

(自身や他の種族や〈自然〉を考察するできることに続けて)しかし、この考察は動物のひとつの種族に属するという位相からはなしえず、逆に観念を行使するものという位相からのみなしうるとともに、この観念なるものは台座としてじぶんの動物性なしには独在できないという不可逆性を、いいかえれば矛盾をもった存在である。そこで、人間にたいするどんな孝定も、ひとつの方向に還元することはできない。

この箇所の理解が難しい。心的な領域は、原生疎外された生命体の内的世界という意味では、どんな生命体も持っている。しかし、そういう内的世界を自覚するという内的世界を持っている、マトリューシカのような多層構造を持つという意味だと思われるが、章末と対応しており、そちらのほうが分かりやすい。


だが、フロイドが無造作であったのとちがって〈精神〉は台座である〈身体〉とはちがった〈自然〉である現実的環界の関数である。そしてこの関数は、フロイドのいう意味での〈精神〉の関係である。そして残念なことに人間の〈関係〉の総体としてのこの世界は、フロイドが無造作にかんがえたほど等質ではなく、異なった位相の世界として存在している。 

このフロイド・ビンスワンガー・ヤスパースについての記載は、「言語にとって美とはなにか」の、S・K・ランガーとスターリンについての記載、言語道具説と時枝誠記の言語過程説との比較を髣髴とさせる。次章から、それぞれが何をすくい取り、なにを取りこぼしたのかが明確になっていく。




2016年4月24日 資料・発表:大谷隆

Ⅰ 心的世界の叙述


吉本は「わたしはここで現象学とも悪しき唯物論ともちがった仕方で、〈観念論か唯物論か〉という二元的な問題のたて方を超えてみたい」という。

観念論:認識の妥当性に関する説のひとつで、事物の存在と存り方は、当の事物についてのidea(イデア、観念)によって規定される、という考え方である。(略)観念論とは、観念的もしくは精神的なものが外界とは独立した地位を持っているという確信を表すものである。(Wikipedia)

唯物論: 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方。(Wikipedia)

「心的現象」というもの自体が、唯物論的にはその根底にある物質によって生じたものであり、それ自体を扱うことに意味はない、となる。これに対し吉本は、

心的なおおくの現象が、それ自体としてあつかいうるという根拠は、ひとつには、どんな要因を想定できるとしても、心的現象がかならず個体をおとずれる点にもっとも簡単にもとめられる。いいかえれば、これこれの外界の出来ごとの結果であっても、あるいは自身の生理過程の結果であったとしても、個体はなお〈じぶんがいまこう心でおもっていることをたれも知らないし、また、たれも理解することはできない〉という心的状態になることができる。

もうひとつは個体のうちに〈異常〉または〈病的〉とかんがえられる心的な現象があらわれることを、外からみて疑いえない点にある。(略)しかし、(常軌をはずれた行動をとったとき)なぜそういう行動をとるようになったのか、また、そういう行動をとったときどんな心的な状態にあるのかということは他者にはわからない。ただ、その行動に一定の類型があることが、経験上わかっており、累積された知識によってその個体を一定の〈異常〉または〈病的〉なタイプに属するものときめるだけである。

吉本の言葉で言い直せば、「自己表出は心的現象を想定する」「人の幻想領域は心的現象を想定する」ということになるだろう。また吉本は、心的現象を「構造的な現象」とする。「構造的」とは、

たとえば樹木が風に揺らいでいるとか(略)いう(現実的な)現象とちがうのは、それが同時に可視的でない構造的な現象でありうるという点にある。

現実的な現象を人は「構造として」見る。このとき見る対象は「自然の空間—時間そのものでなく、個体に固有の空間—時間によって変えられて受容されている」。つまり「心的な現象」とは、人が現実を「構造として」〈体感〉することによって、その人固有の空間—時間のなかに取り込まれた固体内部で結ぶ〈像〉としての〈現象〉を意味する。個体内部で結ぶ〈像〉をそれが結びうる〈スクリーン〉(領域)として見ればその〈スクリーン〉を「幻想領域」と言うのだろう。

以下余談。

ある個体がとうていかんがえおよばないような常軌をはずれた行動をとったとき、(略)その心的状態はどんなに豊穣な世界だとかんがえても、どんなに荒廃した世界とかんがえても、とがめられる筋合いはない。その世界はかれ自身のみが知っており、しかもそのかれはかれ自身の世界を知りえない状態にある。平常にかえったのち記憶によってたどられるものは、厳密にいえばそのときのかれの心的状態ではない。ただその心的な残照について語りうるだけである。そうだとすれば、個体のこのような世界は、その個体にとってのみ有意味な部分を包括しているとみなすことは、けっして不当ではない。このとき、個体は、外界のすべての現象にたいしてそうであるかどうかはしばらくおくとして、外界を収斂する場所の一つであるように機能している。

この部分は、「書かれたものがその時点での死体であり、その後を生きたその人は〈書いた人の親戚〉のようなものだ」ということを僕がいう時の感覚にほぼ一致するように思う。この心的状態が表現として出現し固定したものが「書かれたもの」であり、それはその人のその時の「外界が収斂する場所」としてあるということになるのかもしれない。
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