【13】加藤周一『現代ヨーロッパの精神』第3回発表資料

2016年3月26日 作成:大谷

■4 サルトルと共産主義


「スターリニズム」とはどういうことか。僕のこれまでの理解は、

西欧では、一般に警察国家、権力の過度の集中と官僚主義を指す[116]

に一致するが、ここではサルトルの『スターリンの亡霊』を読み解いている。

資本の「原始的蓄積」の過程には、常に犠牲を伴う。それは資本主義的体制の初めの時期にもまた社会主義体制の初めの時期にも共通の現象であって、社会主義に固有のものではない。(略)資本主義的方式と社会主義的方式とのちがいは、大衆の犠牲の存在そのものではなく、その責任が前の場合には自由主義的な資本家に帰せられず、あとの場合にはすべて指導者に帰せられるということにすぎない。[119-120]

「社会主義体制の初めの時期」=革命直後にソ連で何が起こったかというと、

第一、革命前には労働階級の生活の飛散がそのまま資本主義体制そのものに対する批判であり、生活程度の向上という労働者の直接の利益と労働者のための社会の建設という間接の利益とは、原則上、一致する。(略)ところが革命後には、その関係が根本的に逆転する。工業化を促進するためには、生産財の生産に対する投資を大きくして、消費財の生産を抑えなければならない。(略)「ソヴィエット社会最大の矛盾」は「社会主義的建設という長い眼でみた利益が、労働階級の利益と対立する」[120]

第二、工業化の促進は、一方ではまた、農村人口の都会への流入となって現れる。都会の労働者は、低賃金を補うために食料品の価額の低下を求め、そうする事で農業労働者の利益と対立する。[120-121]

第一の矛盾から指導者および官僚機構と大衆との対立が生じるとすれば、第二の矛盾からは、工場労働者と農民との対立が起こる。[121]

この矛盾をなんとかするために、独裁が生じ、その極端なものとして、個人崇拝が生じたとする。つまり、

「一国社会主義またはスターリニズムは、社会主義の偏向ではなく、状況によって社会主義に課せられた廻り道である」[122]

この状況は、対外的なものと国内的なものがあるが、それらは中国の出現と工業生産力の発展によって根本的に変わり「スターリニズムを精算する方向へ」働くとサルトルはする。加藤はサルトルの考え方の特徴として2つ挙げる。

その第一は抽象的に社会主義を論じることを避け、議論を実践にむすびつけて、そのはたらきを有効ならしめようとする態度である。[124]

「第二」が読み取りにくいが、

その上で次に来る問題は、「廻り道」がなぜおこったか、労働者はなぜ政治的罷業に動員されなかったか、ということになる。彼は「廻り道」を社会主義的建設の長期の目標と労働大衆の直接の利益の対立という革命後の社会の基礎構造から説明した。[126]

「廻り道」が革命後のソ連で生じるのはやむを得ないが「革命前のすでに工業化された資本主義(であるフランス)では労働運動の『偏向』となってあらわれる」。

サルトルの問題は、「スターリン主義者」の指導部を大衆が批判したということではなく、大衆が直接の利益以外に政治一般に対する関心を失い、したがって連帯の意識を失い、自己の階級の力に対する信頼感を失ったのはなぜかということであった。[127]

これは3章のシモーヌ・ヴェーユの視点とも重なる[104]。加藤はサルトルの思想史的意義を

フランス思想の伝統的な論理とマルクシズムの論理との最初の徹底的な対決[130]

と要約する。加藤は、資本主義の構造上の「悪」に対して、人間の内面的な問題に還元するのではなく、構造を変えることによって解決しようとするためにサルトルはマルクシズムの論理を取り入れたとしている。


■五 ゴットフリート・ベンと現代ドイツの「精神」


ナチスドイツ下で「亡命しなかった」ゴットフリート・ベンの「精神」から当時の、そして本書執筆時点でもなお残るドイツの「精神」を読む。第2章の続き(詳細)でもある。

ゴットフリート・ベンの出発点は、自我である。「私」とは何かという問から始めるのは、いわば西欧的思考の伝統であり、その事自身不思議ではないだろう。われわれは容易に、デカルト以来現代に到るまでの系列を辿ることができる。殊にニーチェ以降、ハイデッガーやヤスパース、またフランスでのサルトルやカミュの問題の提出の仕方には、共通の何ものかがある。心理学が意識を分解した後で、その意識の統一を回復するにはどうすればよいか。どこに自我の統一があり、人格の持続があり、最後の現実があるのか。ニーチェ以降の思考は、常に自我の存在を問う形而上学的問に始まっている。その答が、周知の通り、「実存」であり、「不条理」であり、「虚無」であった。[149]

彼の場合には、近代的自我を虚無へ還元する操作が、同時に進歩思想に対し非歴史的な立場を、実証主義に対し非合理主義を、市民社会とその文化に対し運命的なものと芸術を強調する道に通じていた。なぜならば、虚無の自覚は、自覚にとどまらず、同時に「虚無からの創造」を要請し、表現を求めると共に、それ自身の拡大を求めたからである。彼自身の虚無は、客観化されて芸術となり、(略)また民族と国家に拡大されて、個人を呑みこむ運命の「流れ」となることを、もとめたのである。[152]

(マンに対し)彼の場合、俗物性は文化と対立するのではなく、俗物性と文化とを併せて市民的なものに、芸術が対立するのである。(略)芸術が文化から切り離されるばかりでなく、思想もまた人生から切り離される。まず近代的自我の拒否があり、それに続いて、市民的な文化と人生の拒否があり、さらに実証主義と歴史的な進歩主義に対する拒否がある。[153]

なかなか読みにくいが、近代的自我が虚無へと還元するプロセスで、芸術が文化から分離・絶対化するとともに、個人を超越する民族・国家が結実するということか。対して加藤は、

しかし人間に普遍的な領域が歴史の領域であるということをいわなければなるまい。芸術の根拠は何人も強制しないが、歴史の根拠はすべての人間を強制し、義務付けるだろう。もしそうでなければ、ファシズムに反対することも、無意味になるはずである。[162]

とする。
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