【16】熊倉千之『日本人の表現力と個性』第1回レジュメ

作成1/31 小林健司

 言語の本質が

・ 共通性…誰にでも共通して理解できる標準化された意味
・ 独自性…表現する人の体験や感覚による個別の価値

にあるとすれば、
 この本で作者が言っていることはこのように理解できる。

 「日本語は、言語の独自性が特に強く表現される言語だ。共通性の基盤となっているのは、それぞれの言葉を発するときの身体感覚とそれを指し示すものが強い結びつきを持っていることある。たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」という言葉は、それぞれ音を発するときの口の形と、それらの言葉を使って示されるものに強い関連がある。

 また、言語の独自性が強いことは時間の表現にも影響している。古語の「けり」や、現在過去を示すとされている「た」は、英語のように常に一定の過去の時間に属す動作などを指し示すのではなく、過去の世界をありありと感じながら「今のこととして」表現される。」

 過去形と、現在形については、以前、三浦つとむのゼミではっきりと理解することになったが、「た」は、「今、終わりました。」というように、現在起こっていることに対しても使われる。逆に、過去のことを話している時にも、長く話していると、あるいは文学などでは、現在形とされる言葉が混ざっているようなことは多々ある。

 対して、英語はこの本を読む限り、言語の共通性が強く表現される言語だと思われる。
最近、友人が英語を勉強しだして、「フォニックス」というものを教えてもらった。
 ウィキペディアによると、
フォニックス(英: Phonics)とは、英語において、綴り字と発音との間に規則性を明示し、正しい読み方の学習を容易にさせる方法の一つである。 英語圏の子供や外国人に英語の読み方を教える方法として用いられている。
というもので、アルファベットそのものの読み方と、通常使われる単語での読み方が違うということを、体系的に教えるようなものまであることに驚きを覚えた。

 また、その友人曰く、英語は口の中を楽器のようにつかって、日本語に比べてたくさんの音を表現している、とのこと。たとえば、r音は、舌を上あごにくっつけるようにして出すけれど、日本語は口の開き方程度で、舌はほとんど動かさない。thとか、p,というときも、ほとんど息を吐くときの音を意味していて、これも、日本語にはない音の表現だと思われる。
 また、ちょっと調べると、英語と日本語は周波数が違う、とかもある。本当だろうか?

日本語: 125~1,500Hz
英語: 750~5000Hz (ブリティッシュEnglishは、2,000~12,000Hz)
ここからは、というより、ここまでも推測ばかりだけれど、だとすると英語こそが、音の表現を多様にしていくことで、外界にある対象を正確に捉えて表現しようとした言語なのではないだろうか?

 熊倉が、日本語が「イマ、ココ」を正確に表現する言語、としているのは、言語の独自性に負っているものが多い。「きっちり」とか「かっちり」というとき、身体表現やこれまでの経験という独自性を主軸となり、言語が指し示している共通性を通路にして、その質感までもが、聞いている人に伝わってくるように感じるのだ。

 この質感は、同じ経験をしている人が多いほど似通ってくると思われる。だが、厳密に見ていけばそれぞれ全く同じものをイメージできているわけではない。


2016/01/31 山根澪 

「はじめに」において著者は本の目的を語る。

この本で試みたいのは、私の感性や異文化体験を拠りどころに、日本文化の基底になっている日本人のものの見方を分析すること、私たちがどういうふうに現実というものを捉え、その結果どういう文化をつくっているかを検討することだ。[i]

また、人々のものの見方・文化は使う言語により制限をうけるという仮説に拠りながら著者の「私の感性や異文化体験を拠りどころに」という立場を以下のように詳しく示す。

私が四半世紀にわたるアメリカ滞在で、アメリカ人と同じ言葉でものを考えるようになった分だけ、日本がヘンに見える。また、日本人として日本語の語感が根強く残っている分だけアメリカ人に違和感を感じるというわけで、今二つの文化の狭間に宙ぶらりんになっている。日本に再びどっぷりと浸かりこんでいるうちに、日本のヘンなところがヘンに見えなくなっているにちがいないから、その前に日本語と、それによって制約を受けている文化現象の一つとしての日本文学について、ごく私的な感想をまとめておきたい。[i]

日本語に対しても、英語に対しても斜に構えた立場に思える。「アメリカ人と同じ言葉でものを考えるようになった分だけ、日本がヘン」だと言われると、日本とか日本語をもう少しちゃんと見て欲しいという気持ちになる。更に筆者はアメリカと日本の大学で教えていた経験を上げると共に、

個人が個人として生きて行かなければならないアメリカでわたしは孤独だったが日本社会の「集団的私語」にも取り残されそうになって、この構造に納得のいく説明を施すことが、私の日本社会復帰に必要なリハビリ作業だと考えた。[ii]

日本語ではない言葉で考えるから「日本がヘン」だと言われると今となっては違和感があるが、わたしもわずか4年ほどのカナダ生活で、自分自身が筆者と非常に似た経験をしたことを思い出す。帰国後、確かに日本はヘンだと思うようなこともあり、また「取り残され」るような会話への恐怖みたいなものは実際に感じた。本書には納得いかない部分も多いが、なぜそのように思うのかのヒントになるのではないかと思ったものを書きだした。

<日本語と他人との関係性>


ところで、人間<human being>を「人間」と定義した日本人は、「人間」とは、人と人との間柄という構造をもっているのだと考えたのだろう。日本語に共通の話し手の視点がこの構造の基底にあって、日本人は自分というものを他人との関係によって、相対的に判断している。[73]

更に、聞き手の態度として、少しページが遡るが相手との関係性が現れる事例として「帰る」が挙げられている。

ただ「帰る」といっても、それは純粋に行為だけを表現するのではなく、特定の人間関係の中で、例えば同僚とか部下に対するいい方になってしまう。それにひきかえ、中国語や西欧語では、話し手が帰るのも第三者が帰るのも、帰るという行為だけを意味することができる。日本語では「帰る」は、聞き手との関連で意味の制約を受ける。[59]

例えば、

「私、帰る」「私、帰ります」「うち帰んねん」「大谷ちゃんが帰るよ」「隆さん帰ります」「彼帰ります」

などのように、人間関係が大きく露出するように見える。英語では、

I’m going home. He is going home.

のように主語を固定した場合に関係性は現れないように見えるが、John Smithという人を仮定した場合に、Mr. Smith is going home. John is going home. あるいは、My boss is going home. That young guy is going home.などの言い方も可能であるし、「家に帰る」という行為をとりあげようとしたとしても、関係性により動詞の選択が変わる可能性があり、話し手と聞き手の関係の制約は無いとは言えないだろう。

 ただ、日本語においては主語の選択、敬語や、「ね・さ・よ・わ」などの終助詞[76]非常に細かく見える関係性がある「部下と上司の関係」「親戚の集まり」「友人同士の関係」「同郷」くらいは当然で、それも細分化され細かい年齢差、関係の深さまで捉え細かく言語に現す。若干の年齢差や、出身地をさほど気にしない言語にとって日本語はヘンに見えるかもしれない。

<自分のなかに他者を住まわせる>


日本人にとっての自衛手段は、他者を自己の分身にしてしまうことだ。他者の心情を汲むことは、自分の中に他人を住まわせることで、そうすればいざという場合、そういう他人が自分を守ってくれる。あるいは自己に他者を投企して、自分を他人にしてしまうことだ、といってもいい。[102]
積極的に他人に「なる」(あるいは、自分の中の他人と仲良くする)ことを日本語に共通な「視点」が支えてくれている。個人としての達成を人生の目標としている西欧の社会と違い、日本の社会では他人になり変わることが理想の姿であってもいい。(略)それは快い作業だ。この「他人」は、個としての他者から出発して、社会生活の中でだんだん集団化していく。これが、「間人としての人間」としての、日本人のありようなのだ。[103]

自分の中に他人を住まわせることは、日本人だけの特性なのだろうか。「西欧人は自己を他人から守る手段として、つとめて個人的に独立しなければならず、そのためにまた自己主張をしないわけにはいかなくなる。」[102]ともあるが、西欧人は「個人としての達成を人生の目標としている西欧の社会」という他人を住まわせているのではないか。しかし、これは「日本社会の「集団的私語」にも取り残されそうになっ」た筆者の説明としては納得がいく。日本人の多くが住まわせている他人を筆者はまだ住まわせていなし、おそらくどんな他人が住んでいるのかまだ分析できていない。そんな中で話したときの反応は意外なものが多いだろうし、同じ他者を住まわせていると安心できる。

ただ、それで同じ他者を住まわせて話をすればいいのかと言えば、それが役立つことはあるが、そうは思わない。

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