【15】吉本隆明『共同幻想論』第6回レジュメ

2/28 配布資料 小林作成分

あらゆる対他的な関係がはじまるとすぐに、人間は〈醜悪な穢れ〉を〈法〉または〈宗教〉として疎外する。そしてこれはただ清祓によって解消されるだけだとかんがえられていた。この〈醜悪な穢れ〉の意味が、生活のくりかえしにともなう文字通りの身体の汚れという意味で河洗い海洗いによる清浄化に転化したとき、一方で身洗的な清祓行為が〈宗教〉としての意味を持つようになったとかんがえられる。(改行)人間のあらゆる共同性が、家族の〈性〉的な共同性から社会の共同性まですべて〈醜悪な穢れ〉だとかんがえられたとしたら、未開の種族にとって、それは〈自然〉から離れたという畏怖に発祥している。人間は〈自然〉の部分であるのに対他的な関係にはいりこんでしか生存が保てない。これを識ったとき、かれらはまず〈醜悪な穢れ〉をプリミティブな〈共同幻想〉として天上にあずけた。[234]

人間の共同性が穢れとして疎外される原点は、前回取り上げた「アジールとしての家」だと思われる。この段階では、人間が手を加えたという点から穢れが発生する。これをどの程度強化していくと、「自然から離れたという畏怖」にまで達するのかは分からない。

この挿話によれば初期王権で王位を継承することは、かならずしも〈国家〉の政治権力をじかに掌握することとはちがっていた。そうだとすれば初期王権の本質は、呪術宗教的な絶対権の世襲に権威があったとしかかんがえられないのである。[246]

わたしのかんがえでは、魏志の邪馬台国群はかなり高度な新しい〈国家〉の段階にあるとみるべきで、すこしもその権力の構成は〈原始〉的ではない。それにもかかわらずその〈共同幻想〉の構成は、上層部分で強く氏族的(あるいは前氏族的)な遺制を保存している。そしてその保存の仕方は、邪馬台についてみればとても呪術的で、政治権力にたいしてまったくかかわらなかったとさえいえる。

日本列島に住んでいた人々の共同体の移り行きをイメージしてみると、

縄文時代には、海や河川を中心に移動しながら交易を前提にした分業をしており、穀物の栽培や組織的な建築などをしている集落が点在していた。おそらく、この段階の集落では、血縁や地縁を中心にした土俗共同体をつくって人は暮らしていた。それ以外にも、集落をつくらずに海や山で共同体を営む人々もいたと思われる。それぞれの共同体では、独自の信仰があったが生活自体が自然と大きく結びついたものだったため、そのほとんどは自然崇拝に近い信仰体系だったと思われる。

弥生時代になると大陸から稲作やその周辺の技術・知識を持った集団が大挙して移動してくるようになる。この時点でもちろん、それぞれの共同体と大陸で暮らす人とは交流があったと思われるので、突如として押し寄せてきたわけではないにしろ、列島民が誘うようにして来たのか、何らかの事情で大陸を追われた人々が押し寄せたのかなど、その理由などはわからない。

 しかし、主に西日本を中心に稲作は驚くべきスピードで広まる。東日本で広がるのに時間がかかったことから、西日本においては、元々それぞれの土地で暮らしていた共同体がすすんで稲作を取り入れたと見るのが妥当だろう。

 それから数世紀のちには、西日本を中心に各地に原初的国家が成立する。このことと、稲作の伝播とは全く関係がないとはいいきれない。共同体を維持、発展するほどの稲作を続けていく場合には、組織化や規範の強化は避けられないはずで、吉本の言う共同幻想もこの時期に強度と広さを持ったはずだ。

 やがて、九州か近畿に邪馬台国という、原初的国家を統率し始めた統一国家の前身が発展する。そこからさらに数世紀を経て、大和朝廷という国家が樹立し、律令制の導入などをしながら日本国という統一国家が成立する。

 ここで、この統一国家の道を歩む共同体がとったのは、天皇という呪術的な国家元首をトップに置いた体制だったが、これは元々の共同体を統一するために苦心の末に発明されたものだったのではなかろうか?

 さらに妄想を続ければ、国家にはもちろん武力があり、反発する勢力には武力で対処することは当然の手段のはずだが、なぜそれほどまでに国家の体制に呪術的な性格を残す必要があったのか。それは、一つの組織の軍隊だけで列島の全土はおろか、ごくわずかの地域を安定して統治することも難しかったからではないのか?山や海に囲まれた土地では、多少の人数的な戦力差は戦局の決め手にならない。先頭を放棄する手段も含めれば、列島にもともと済む共同体が統一国家を目指す共同体に対してとり得る不服従の態度はいくらでも考えることができる。だから、あくまで主体的に統一国家に従ってもらう必要があったのではないか?

 事実、律令制を取り入れた統一国家が、大規模な開墾と陸の大道の計画を実施しようとしたが、それらは実施途中で実行力を失って頓挫し、結局江戸時代になるまで、小さな村落に到るまで田畑を税の単位にすることはなかったし、海や河川をつかった移動が主流でありつづけた。

  他の呪術的な色の濃い国家を知らないが、統一国家の進行する宗教を押し付けるのではなく、わざわざ、それぞれの共同体の神話や信仰を取り入れてまで、統一国家の神話を編纂したのはなぜなのか?

さもあれ『古事記』の編者たちは、かれらの先祖を描きだすのに、たかだか魏志に記された邪馬台的な段階の一国家あるいは数国家の支配王権の規模しか想定できなかった。[263]

  まだ生まれたばかりのか弱い統一国家の姿がイメージされる。もしかすると、規模が大きくなっていっても中世後期まで、こうした不安的な状況はずっとつづいていったのではないのか。




2016年2月28日 資料・発表:大谷隆

まず、吉本の論の本体にはそれほど大きくはかかわらないが、三角寛のサンカ研究については、

1965年には、この論文を基にした著作『サンカの社会』(1965年)が刊行され、三角は一躍サンカ研究家として脚光を浴びることとなった。しかし、この研究は掲載されている写真の信憑性(別々の場所で違う日時に撮影されたはずであるにもかかわらず、同じ人物が同じ服装で写っている。後に筒井功によって写真のモデルが特定された)、さらに江戸時代末期の偽書『上記』を元にしたと考えられる「サンカ文字」が紹介されるなど、そのほとんどが三角による完全な創作と言うべきものだったことが、現在では確定している。
(Wikipedia)
とある。225ページあたりの『古事記』(やくもたつ…)は、三角の創作である可能性がある。

■規範論


吉本は〈共同幻想〉としての〈法〉的な〈規範〉の成立を〈天つ罪〉〈国つ罪〉から見る。

氏族(前氏族)的な共同体から部族的な共同体へと移行してゆく過程で、変化していった〈共同幻想〉の〈法〉的な表現について、わたしたちが保存したいのはつぎのようなことだけである。(改行)経済社会的な構成が、前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、〈共同幻想〉としての〈法〉的な規範は、ただ前段階にある〈共同幻想〉を、個々の家族的あるいは家族集団的な〈掟〉、〈伝習〉、〈習俗〉、〈家内信仰〉的なものに蹴落とし、封じこめることで、はじめて農耕法的な〈共同規範〉を生みだしたのであること。だから〈共同幻想〉の移行は一般的にたんに〈移行〉ではなくて、同時に〈飛躍〉をともなう〈共同幻想〉それ自体の疎外を意味することなどである。[231]

ここまで読めばはっきりするが、吉本の言う〈共同体〉は、農耕共同体(と農耕共同体へとそのまま進んでいく前農耕共同体)を前提している。その理由は、吉本の狙いが、現在の日本という〈国家〉の直接的な始祖である大和朝廷=天皇制を相対化すること、その底浅さを露呈させることにあるからで、その大和朝廷の支配力の源泉が農耕共同体にあると踏んでいるからである。この「農耕共同体としての日本」という像は、〈支配〉する側が作為してきたものにも一致し、現在「常識」とされている我々の意識(「瑞穂(日本国の美称)」等)とも一致する。

■起源論


吉本は独自の読解力で、その〈支配〉する側の作為自体の底浅さを、〈支配〉する側の作成した『古事記』から読み取る。

さもあれ『古事記』の編者たちは、かれらの先祖を描きだすのに、たかだか魏志に記された邪馬台的な段階の一国家あるいは数国家の支配王権の規模しか想定できなかった。この事実は初期天皇群のうち実在の可能性をもつ人物がきわめて乏しかったにしろ、そうでなかったにしろ、かれらの直接の先祖たちの勢力が邪馬台的な段階の国家の規模しか占めていなかったのを暗示しているとおもえる。[263]

(余談かつ陰謀論的ではあるが・・・)

稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっていない。
■異説
近年、梅原猛が『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている。また、阿礼を中臣磐余の孫とする系図もある[2]
(Wikipedia)

『古事記』『遠野物語』を読み解くことは、吉本が最初から意図していたことである。

当たりうる資料はおおければおおいほど正確な理解にちかづくという考えかたがありうるのをしっている。しかし、わたしがえらんだ方法はこの逆であった。方法的な考察にとっては、もっとも典型的な資料をはじめにえらんで、どこまで多角的にそれだけをふかくほりさげうるかということのほうがはるかに重要だとおもわれたのである。そこで『遠野物語』は、原始的なあるいは未開的な幻想の現代的な修正(その幻想が現代に伝承されていることからくる必然的な修正)の資料の一典型としてよみ、『古事記』は種族の最古の神話的な資料の典型とみなし、この二つだけに徹底して対象をせばめることにした。[264 後記]

いずれにせよ吉本は自分の意図に対して適切な方法を選んだといえる。

吉本は、現在の日本にまで通じるような支配する側も支配される側も含む〈支配〉というものの源泉を見るために「共同幻想論」を書いた。現在存在するものの本質を見るために、その源泉とされているものを明らかにする方法をとった。

だが、別の意図で別の方法をとった人間もいる。

網野善彦は、吉本の明らかにしようとした〈権力〉の発生以前からあり、それ以降も存在し続けてきた非〈農耕共同体〉(漂泊民、海民など)に存在していた原理を「無縁」として見た。文書は歴史的に見て〈支配〉に寄り添って存在しがちである。そこでその逆側を読むために、膨大な無関係史料を当たる方法をとった。現在は、消えてしまった(消されてしまった)かのように見えるものの本質を見るために、現在は卑小に見られているもの(漁労民や漂泊民、被差別民の歴史)を明らかにした。
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