【15】吉本隆明『共同幻想論』第5回レジュメ

2/28 配布資料 小林作成分

網野善彦は、「無縁・公界・楽」で

「人間が人間に隷属し、支配されるということが、いかなる状況の下でおこりうるのかを根本的に考え直してみることに、意義を見出しており、私に時間の許される限り、私なりに事実を探索し、実証を進めたいと思っている。」[325]と言う。
ぼくは本書で吉本が試みていることも、同じ方向性を持っていると感じている。

自己幻想、共同幻想が網野のいうどのような概念に当たるかのかは分からないが、ほぼ間違いなく共通していると言えるのは、吉本の対幻想という概念と、網野の「アジールとしての家」という家の無縁性について述べている箇所だ。

対幻想の定義については、男女の間の幻想領域、とか、同性同士の父子の間の事例を上げたりしているので、明確に言うすくい取ることは難しいが、「対幻想論」「罪責論」から読み取れるのは、子孫を残す男女や、子どもを産み育てる家族、の間の幻想領域といえる。

網野善彦は家について「無縁・公界・楽」で下記のように述べる。

「無縁・無主の原理と、有縁・有主の原理が、ここでは最も密着した姿で背中合せに現われる」[221]
「家が「無縁」の本質を持つ場であり、恐らくは原始社会にまでつながる本源的な「無縁」性を潜在させているとを前提とすれば」[219]
「無縁の場としての家の特質は、いわば世界の諸民族に共通した、人類史的な特質ということも可能になってくるのではあるまいか。」[218]
これらは、因果関係や時間的な前後を前提に考えると理解することは難しいが、前回のゼミで話されていたように、たとえば二者間の関係性というのが、「共有」と「排除」が同時に発生する現象だと捉えれば説明がつくように思われる。

 とはいえ、たとえば、「所有と非所有は共有と排除を前提とした行為であり、所有の原理は排除に力点を置いており、非所有の原理は共有に力点を置いている」のか、「所有自体が共有と排除を前提にした行為で、所有の原理と非所有の原理は、共有と排除の両方、あるいは片方をそれぞれの主張の根拠としている」のか、など、今の段階では考えがまとまらないため、そのまま書き残しておく。

 とはいえ簡単にいえば、家というのが、血縁によって必然的な排除と共有を生むこと、両者が一対となって均等に働き合っているおり、原初的な家(家族)という領域では、共有だけをすることも、排除だけをすることもできないため、それぞれの原理は「背中合わせに密着」していると考えられる気がする。

吉本はそういった血のつながりが兄弟や姉妹という同性同士の対幻想によって空間的な広がりを持つことで原初的国家が成立し、それが土俗共同体や氏族共同体という次元を超えて、「高度な」共同体として法を整備するに到る道筋を描く。

罪責論では、古事記の記述から、血縁に軸足のある対幻想と、共同体に軸足をおいた共同幻想の間で、象徴的に罪を追うことになるエピソードを上げながら、対幻想が共同幻想に同致していく様子をすくい取る。

血縁による直線的な、土俗共同体的な国家の成立から、高度な共同体としての国家にいたる説明としては成立しているように思われるが、血縁の届かない領域において発達した共同体の力が、中世まで国家が確実な基盤を築くことを拒み続けていたことを考えると、この対幻想のとった道筋は他にもいくつもあったと考えられる。




2016年2月28日 資料・発表:大谷隆 

■対幻想論


本章は〈時間〉について描かれている。

ここで(『古事記』の冒頭の天地初発の事跡)で別格あつかいの「独神」というのは、いわば無〈性〉の神ということであり、男神または女神であったのに〈対〉になる相手がないというのではない。わたしのかんがえではこの「独神」の概念は、原始農耕社会以前の幻想性を語るものである。かれらが海岸や海上での漁獲や、山野で鳥獣や自然植物の果実を収集して生活していたにしろ、穀物を栽培し、手がけ、その実りを収穫して生活する以前の社会に流通した観念にもとづいている。そこでは鳥獣や魚や自生植物は、自然そのものが生成させたもので、その採取は自然の偶然に依存していた。こういう自然は先験的に存在するものであった。それは人間にすでに与えられて目の前にあったのである。あたかも幼児が、過去の出来事をみんな〈昨日〉の出来事と呼び、未来の出来事を〈明日〉の出来事と呼び、それ以外の時称がない時期をもつように、現に目の前に存在する自然が、そのとおり存在するには〈昨日〉と〈明日〉だけがあった。だから『古事記』の「独身」は〈現在〉性を構成するに必要な〈時間〉概念の象徴にほかならないといえる。[193]

男・女神が想定されるようになると〈性〉的な幻想に、はじめて〈時間〉性がどうにゅうされた。〈対〉幻想もまた時間の流れに沿って生成することが意識されはじめた。そしてこの意識が萌したのは、かれらが意図して穀物を栽培し、意図して食用の鳥獣や魚を育てるすべを知ってからである。(略)それに習熟したとき、自然を生成として流れる〈時間〉の意味を意識した。いままで女性が子を産み、人間が老死し、子が育つことに格別の注意をはらわなかったのに、人間もまた自然とおなじく時間の生成にしたがうのを知ったのである。まずこの〈時間〉の観念のうち、かれらには女性だけが子を生むことが重要だった。いいかえれば〈対〉幻想のなかに時間の生成する流れを意識したとき、そういう意識のもとにある〈対幻想〉は、なによりも子を産む女性に所属した〈時間〉に根源を支えられていると知ったのである。[194] 

吉本は、人間が「〈時間〉を意識する」契機として「意図して穀物を栽培し、意図して鳥獣や魚を育てるすべ」を手中にしたとき、「女性が子を産み、人間が老死し、子が育つ〈時間〉」を意識し、これが〈対幻想〉の根源であるとする。また〈世代〉意識の獲得にも同致し、親子の相姦のタブーの発生とする[196]。

■罪責論


吉本は、〈神話〉に〈歴史〉が途絶える以前の時間性を求める。具体的には『古事記』である。本章の『古事記』の読み解きは、現在の日本の国家体制の直接の始祖とされる大和朝廷の支配体制確立のドキュメントとして非常に興味深い。ここに来て母制論が書かれた必要性とも結びつく。

前氏族的な段階では、姉妹が宗教的な権力の頂点として神からの託宣をうけ、その兄弟が集落共同体の政治的な権力を掌握するというかたちが〈共同幻想〉の原型であった。そこでの〈倫理〉は、いわば神からの託宣をうけるかうけないかというところにあらわれた。スサノオはあきらかにこの〈倫理〉を背負わされた象徴的人物である。しかも農耕社会の支配者の始祖という役割を『古事記』の編者たちから負わされている。農耕社会の支配者たち、したがってそのもとにある大衆は、母系の神権に与えられた神からの託宣にたいして無限責任を負わされ、この無限責任の重圧が耐え難いとき〈倫理〉の問題が発生するのである。(改行)これにたいして、サホ彦、サホ姫という兄弟と姉妹の挿話がかたるものは、氏族制が部族社会の統一国家に転化する過渡期にあらわれる〈倫理〉の問題である。(略)母系的、氏族的、農耕的な〈共同幻想〉はここで、部族的な統一社会の〈共同幻想〉に飛躍する。(略)ヤマトタケルが、政治権力の所有者である〈父〉からうとまれたとかんがえたとき、訴えたのは部族社会の最高の巫女叔母のヤマト姫である。だがこの巫女は部族の始祖である神を祭った神社に奉仕する巫女だが、すでに宗教的な権力者として部族の〈共同幻想〉の一端を担う存在ではなくなっている。フォイエルバッハ的にいえば、部族の至上物が一個処に集められ住んでいる神殿に奉仕する巫女にしかすぎない。ここでは母系が集落の宗教的権威として現世的な政治権力よりも優位であった時代は、ただ痕跡をとどめているだけである。[212]

吉本の読みによれば、もともと前氏族的な宗教的権力と政治的権力の時代から、宗教的権力が剥落していくことで、統一国家が誕生するとなる。

一方で網野善彦らによれば、大和朝廷成立以降、現在まで天皇制が維持されてきた理由として、天皇の持つ二重的支配構造、つまり統治権的支配と主従権的支配をあげる。吉本の言う宗教的権力と政治的権力、網野らの統治権的支配と主従権的支配になんらかのかかわりがあるのだろうか。

また吉本は自身の講演で、以下のように述べている。

現在の政治権力が倒れれば、根底的に倒れれば一緒に(天皇制も)倒れるというような。しかし問題はそういうことじゃないのであって、そんなこと倒れるとか倒れなくてもね、依然として宗教性としての天皇制ってのは残るんですよ。(講演「宗教としての天皇制」1970年)

つまり、統一国家が成立する過程で当時の権力者はもともと存在していた土俗的な宗教的権力を「苦労して」追いやりつつ自身の権力構造の土台に混ぜ込んでいった。その苦労が『古事記』ににじみ出ている。さらにその変質した宗教的〈姿〉が今も残っているということだろうか。

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