【15】吉本隆明『共同幻想論』第2回レジュメ

作成2016/01/17 小林健司



憑人論、巫覡論で、吉本は個体の持つ心的世界と、共同幻想との同調について述べる。

(他なるもの、自同的なるもの、へむかう入眠幻覚を指して)そこでは入眠幻覚の性質は行動にあらわれた結果によって知られるのではなく、自己喪失と自己集中の度合いによってきめられる。わたしのかんがえでは、〈始原的なもの〉へむかう志向と〈他なるもの〉へむかう志向と〈自同的なるもの〉へむかう志向とのあいだの入眠幻覚の位相のうつりかわりは、共同幻想が個体の幻想へと凝集し逆立してゆく転移の契機を象徴している。[69]
遠感能力者というのは、いわばじぶんの心の喪失を代償に、ほんのささいな対象の情感や動作を感じとって対象への移入を完全にやってのける能力にほかならない。[74-75]
ただ、〈未視〉や〈遠視〉が可能であるかのように存在するとすれば、人間の心の世界の時間性の総体である生誕と死にはさまれた時間と、心の判断力の対象となりうる空間に限られた領域のうちで存在するかのような仮象を呈するといえるだけある。[75]
この能力は心の現象としては、個体の了解作用の時間性を、村落の共同幻想の時間性と同調させることで獲られるはずである。[94]
もしある個体が、この共同幻想の時間性に同致できる心的な時間性をもつとすれば、かれの個体の心性が共同幻想の構成そのものであるか、あるいは何らかの方法でかれの心の時間性を同調させるほかはない。『遠野物語拾遺』の〈いづな使い〉は、自然にかあるいは作為的にか、かれの心の了解の時間性を共同幻想の時間性に同調させている。[94]

これらを逆から言うと、未視や遠視については「かのような」という表現をしながらも、個体の了解できる時間制が共同幻想の時間制に同調させることが可能である、ということになる。共同幻想自体が集まった個体によって生まれているので、つながりがあるのは当然ではあるが、これは人間にそのような心的な特性があることを示している。

ここで思い出すのは、ファミリーコンステレーションという比較的新しい心理学の手法だ。そこでは、ファシリテーターの指示のもとで、自分の心的な状況を観察したい人が、別の参加者に代理人になってもらい、その代理人の配置をする。そのとき代理人には、自分のものとは思えない感情や感覚が発生するのを感じることになり、その状況を実況中継しながら観察者に情報を伝えていく。

おそらく、ここでは、配置をすることやファシリテーターの説明など、特定の手続きへることで、ひとりの個体が持つ自己幻想の時間制に他者が同調することで、了解可能な現象を発生させて確認しているのではないかと思う。

一方の個人が他方の個人にとってよそよそしい〈他者〉ではなく、勝手に消し去ることのできない綜合的存在としてあらわれる心の相互規定性は、一対の男女の〈性〉的関係にあらわれる対幻想においてだけである。[85]
対幻想については、後の章でも詳しく述べられることになるが、一組の人間が「勝手に消し去ることのできない綜合的存在」であり、そこに「心の相互規定性」が生じるという見解は、自分自身のパートナーとの関係性で実感あるいは観察してきた事実と符合する。ただし、わたしの考えではそれ以外の人と対話をする場合にも程度の違いはあるが、同様の現象が起こっており、一対の男女の〈性〉的関係にしかあらわれないという吉本と、その部分については見解が異なる。

対話について話すことと聞くことは




2016年1月17日 資料・発表:大谷隆 

憑人論


禁制論(禁制の発生する段階)では、単に入眠幻覚としていたものを吉本はここでさらに拡張する。

この概念(入眠幻覚)をあいまいにしないために、入眠幻覚の構造的な志向の概念を拡張してみよう。入眠幻覚はその構造的な位相のちがいによって類型をとりだすことができる。柳田国男が少年時のもうろう状態の体験として描いた志向性を類てんかん的なものであり、ある始原的な欠損にむかうものとすれば、ほかに典型的に〈他なるもの〉へ向うという型と、〈自同的なるもの〉の繰返しの志向とを想定することができる。(改行)けれどあとのふたつは行動体験にあらわれない。なぜなら〈他なるもの〉へむかう幻覚の構造的な志向は、自己の心的な喪失を相互規定としてうけとるからであり、〈自同的なるもの〉への構造的な志向は、自己内の自己にむかうからである。そこでは入眠幻覚の性質は行動にあらわれた結果によって知られるのではなく、自己喪失と自己集中の度合によってきめられる。わたしのかんがえでは、〈始原的なもの〉へむかう志向と〈他なるもの〉へむかう志向と〈自同的なるもの〉へむかう志向とのあいだの入眠幻覚の位相のうつりかわりは、共同幻想が個体の幻想へと凝集し逆立してゆく転移の契機を象徴している。[69]

この3つの型は具体的には、以下の3つの〈憑く〉としてあらわれる。

いまこういう入眠幻覚の構造的な志向を〈憑く〉という位相からながめれば、柳田国男の描いている少年時の体験はじぶんの〈行動〉に憑くという状態であり、遠隔能力者の手記が語るのは他の対象に憑くということであり、ジェイムズのあげている宗教者の手記は、じぶんが拡大されたじぶんに憑くという状態である。そしてこういう入眠幻覚の体験から異常体験という意味を排除してかんがえれば、それぞれは常民の共同幻想から巫覡の自己幻想へ、巫覡の自己幻想から宗教者の自己幻想へと移ってゆく位相を象徴している。[71-72]

既視という誰にでも起こる常民の共同幻想から、巫覡という遠隔能力者の自己幻想、さらに宗教者の自己幻想が憑くという位相で見ることができる。こうして禁制よりもさらに「高度」に共同幻想が形作られていく。さらに、〈他なるもの〉へと向かう志向が「いくぶん高度化したもの」[72]として〈予兆〉に進み、それが「自分で統御できる」[79] 
までになると巫覡の位相をもつ。そして次章でその詳細を述べる。

巫覡論


巫覡とは、女のかんなぎ(巫)と男のかんなぎ(覡)をあわせたもの。かんなぎとは「古くは神(かむ)和(な)ぎ。神に仕えることを務めとする人。また「神降ろし」をする」[スーパー大辞林]。この章では、かんなぎの成立までを見る。

さらにこういう〈いづな使い〉が、さきの〈離魂譚〉より高度だとかんがえられる理由は、はっきりとじぶんの厳格を意図的に獲て、これを村落の共同幻想に集中同化させる能力が、職業として分化していることである。[91]

〈いづな〉とは「想像上の小動物で狐の仲間とされる」[スーパー大辞林]。この〈いづな使い〉がさらに巫覡へと向かうため〈性〉を見る。

〈いづな使い〉にとっては、じぶんが男であるか女であるかはどうでもよいことだ。かれはただ〈いづな〉を媒介にして村落の共同幻想に、自己幻想を同調させることができればよいのだ。しかし共同幻想の象徴である〈いづな〉にとっては、じぶんが男に憑かれるか女に憑かれるかは重要な問題である。なぜならこの問題は、村落共同体が村民の男女の〈対なる幻想〉の基盤である〈家族〉とどうかかわるかを暗示するからである。[96]
具体的には契機を、吉本は『遠野物語拾遺』二〇七を取り上げ、

わたしのかんがえではこの民譚のなかには〈いづな使い〉がさらに高度になてゆくための機序が象徴されている。この民譚では〈狐〉が〈女〉に化けていて、殺されたあとでもとの〈狐〉のすがてにかえることが語られている。いわば〈狐〉と〈女〉との霊力的な相互転換が象徴的にのべられているのだ。これは、村落の共同幻想の象徴のなかに、はじめて〈女〉が登場し、共同幻想の構造と位相に、あらたな要素がくわわるのを意味しているとおもえる。[97]
〈狐〉が〈女〉に化けてまたもとの〈狐〉の姿を現したという『遠野物語拾遺』の民譚は、村落の共同幻想が村民の男女の対幻想となってあらわれ、ふたたび村落の共同幻想に転化するという過程の構造を象徴しているとおもえる。そしていちばん暗示的なのは〈女〉に象徴される男女の対幻想の共同性は、消滅することで(民譚では女が鉈で殺されることで)しか、共同幻想に転化しないことである。ここで狐が化けた〈女〉は、けっして柳田国男がかんがえるように、たんに女性を意味するものではない。むしろ〈性〉そのものを、いいかえれば男女の〈性〉関係を基盤とする対幻想の共同性を象徴しているのだ。(改行)ここで言葉を改めねばならぬ。(改行)村落の男女の対幻想は、あるばあい村落の共同幻想の象徴でありうるが、それにもかかわらず対幻想は消滅することによってしか共同幻想に転化しない。そこに村落の共同幻想にたいして村民の男女の対幻想の共同性がもっている特異の位相がある、と。いうまでもなく、これは村落共同体のなかで〈家族〉がどんな本質的な在り方をするかを象徴している。[99]

こうして対幻想が共同幻想にたいして特異な位相があることによって、対幻想を措定する。そして引き続き、次の章では、かんなぎの特に「巫」、つまり「巫女」へとより詳細に論が進む。


2016年1月17日 山根澪


本書「角川文庫版のための序」で吉本がこんなことを書いている。

この本のなかにわたしの個人のひそやかな嗜好が含まれていないことはないだろう。子供のころ深夜にたまたまひとりだけ眼がさめたおり、冬の木枯の音に聞き入った恐怖。(略)手の平をながめながら感じた運命の予感の暗さといったものが、対象を扱うてさばきのなかに潜んでいるかもしれない。その意味ではこの本は子供たちが感受する異空間の世界についての大人の論理の書であるかもしれない。[9]

「憑人論」の記述にてわたしが子供のときに感じた世界をふと思い出させるものがあった。子供のときのことを今語ろうとしているのだから、これはすでに子供のときに感じたこととは違っているし、今そのことを共同幻想論を通して解釈してどうなるか知りたいということに過ぎないのだけれど少し当時の状況への解説を試みようと思う。

吉本は、入眠幻覚の構造的な志向のひとつとして<他なるもの>へ向かう志向を挙げる。それは、遠感能力(おそらくテレパシー、透視など)の持ち主の手記を引用しながら説明されていく。手記は程度としては異常だが、内容としてはわたしは似たような気分を知っていると思えるもので、このあたりの記述を読んで思い出すのが子供の頃、幻聴のように喋っていないはずの人の声が時々聞こえていたことだった。多くは母親の声が聞こえていたが、口は開いていないし、ほんとに話している感じの声とは違うので実際には話していないんだろうと感じていた。しかし、その事態を少し不審に怖れながらもその幻聴の内容を割りと信じていた。それでも一度だけ、母にその幻聴を確認したことがあったが、「なんでわかるの?」と言われ、実際にそう思っているのかと思った。

吉本は遠感能力を説明する。更に、フロイトの解析も出す。

この手記者の遠感能力と称するものが、心的な自己喪失を代償として対象へ移入しきる能力をさすことがよくわかる。この<他なるもの>への志向には、どういう意味でも正常な共同幻想の位相は存在しない。個体に集中した心的な超常があるだけである。[70]

(フロイトの解析)遠感能力者というのは、いわばじぶんの心の喪失を代償に、ほんのささいな対象の情感や動作を感じ取って対象への移入を完全にやってのける能力にほかならない。[75]

このように説明されると、幻聴とかテレパシー的なものは実際には起こっていなかったことがわかる。子供のころのわたしはただ人を観察していたのだろう。それが母やその人の声を伴って頭のなかで実際に音として現れたのは、猟師の日常生活が山人譚をうむように、頭の中に直接声が聞こえるという類の表現を絵本やテレビの影響で聞き知っていたからだと思う。だから声が聞こえたという部分は<嘘>のようなもので、「○○さんは本当はこう思ってるだろうな」という予測が頭の中に響く当人の声にまで「練り上げられた」のではないか。

「なんでわかるの?」と母が聞き返したのも、私が聞いた幻聴そのままの言葉で母のなかにあったというよりも、大ざっぱに言ってそのようなことを、しかしまさに考えていたにすぎない。

 本書の考えを辿りながら、あのときの幻聴のようなものを見直すと、確かに論理的に見ることができた。

 また、入眠幻覚の構造的な志向を<憑く>という位相からながめれば<他なるもの>へ向かう志向は他の対象に憑くということになる。他にもじぶんの<行動>に憑くという状態、じぶんが拡大されたじぶんに<憑く>という状態がある[71]が、以下憑くに関して数カ所引用する。

・『遠野物語』のふつうの村民の<予兆>譚を、精神病理現象として考えようとすれば、個体の精神病理と共同的な精神病理とが逆立ちする契機なしに、斜めに結びつくような特異な関係概念をみちびき入れるほかない。[77]
・<憑く>という概念はどんなに不分明でも個体と共同体の幻想性の分離の意識をふくむものである。そこでは巫覡的な人物が分離されて、個体と共同体の幻想を媒介する専門的な憑人となる。憑人は自身が精神病理学上の<異常>な個体であるとともに、じぶんの<異常>をじぶんで統御することで共同体の幻想へ架橋する。[78]
・ただ、じぶんで統御できるかどうかで巫覡の位置をもつか、共同体のなかの個人的な異常の位相にあるかちがいがでてくる。
ただこういう憑人で大切なことは、個体をおとずれる幻想性が、あいまいなままでもよいから共同の幻想と分離していることが前提だということだ。[79]
・娘の遠感能力はこの日から永続的になったかもしれないが、けっしてじぶんで統御はできない。娘の<憑き>の能力をほんとうに統御するのは、遠野の村落の伝承的な共同幻想である。[82]

最後の引用を読んで、なにかぞっとした。ある娘の個人の幻想が、村落の伝承的な共同幻想によって統御されているとはどういうことか。また「禁制論」に以下の記述がある。

わたしたちもまた、現代にふさわしい固有の禁制の世界をあみだし、それにかこまれて身をしめつけられているからである。[60]

仕事で苦しさを感じたときに「あなたがやりたいから、苦しくもなるのだ」と解釈していくときの絡み取るような不自由さを思い出すからかもしれない。多く会社・学校での出来事に起因するしんどさにより社会不適合な状態になっていくとき、それを心理的な病へ回収していく苛立ちを思い出すからかもしれない。山人譚で見たような<出離>への禁制も思い起こされる。

人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。[37]
この挿話にあらわれたもうろう状態の行動はけっして<異常>でもなければ<病的>でもない。空想の世界に遊ぶことができる資質や、また少年期のある時期にたれもが体験できるものである。[67]
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