【12】吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2第9回レジュメ

(作成2015/12/27 小林健司)

二、三の言葉または命題にまとめて提示できるものとかんがえられているものが、ヘーゲルによる内容の本性で、細部の仕上げ、具体的な形成としているものが形式の本性とかんがえられているものだ。[232] 
芸術の形式は、〈架橋〉(自己表出)の連続性からみられた表現それじたいの拡がりであり、芸術の内容は〈架橋〉(自己表出)の時代的、個性的な刻印からみられた表現それじたいのひろがりである[244]
文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときにそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容という。
はじめにおおざっぱないい方をすれば、形式は人間の意識体験が自己表出として拡がり持続されてゆく、その仕方に、ある間接的な基盤をもっており、内容は人間の意識体験が社会にたいしてもつ対他的な関係に根拠をもつとおもう。[254]

「二、三の言葉または命題にまとめて提示できるもの」、「細部の仕上げ、具体的な形成」という言い回しから、吉本とヘーゲルの内容と形式の定義が食い違っているようにしか見えなかった。これが「ヘーゲルの毒性」だろうか。形式と内容の違いは、自己表出を右から見るか左から見るかの違いだといえる。これは、人間存在の歴史的な連続性と、時間的・地理的な断絶性と重なっている。

たんにじぶんを表現するという一般的なことではなくて、書くという紙とインクとペンとが、いわば物理的な作業として、この〈架橋〉(自己表出)にかかわるのは、この物理的な過程が、記憶の便、内省と再検討の手段として、鏡の役割をはたすことにかかっている。そして、この役割はいったん鏡になってしまうと、とどまることをしらないで〈架橋〉(自己表出)の高度化をたすけ、とうとう今世紀にはいって、超現実主義や抽象主義をうみだすまでにいたった。それはすぐに作品の価値の高度化を意味するわけではなかった。〈架橋〉(自己表出)の構造が高度に、緊密に複雑になったというだけだ。これは表現行為のうちがわでいえばどうしてもそうなるべきだといえた。だから書くという行為の以前にある表出(話術)もまた、現在なお芸術の価値としてありうる根拠をもっている。[270-271]

表現が文字として固定されることで、表現の構造は高度に、緊密に複雑になることが可能になり、宿命的に新しい構造を生み出し続けていく。しかし、吉本は構造の高度化や複雑化には芸術としての価値はないという。それは、言語の芸術としての価値、つまり言語にとっての美は、徹頭徹尾、自己表出にあるという視点を持っているからだ。

これ(ブロック材がじっさいの生産と、社会の破片からできていれば、それをつかってつくられたブロック建築は、おなじくこの破片からできているというの)はまったくのうそだといっていい。社会のじっさいの経済的な破片は、建築者がブロック材をつかってブロック建築をつくろうとすると、そのとたんにつくる手つきの幻想過程(自己表出)を介してのみブロック建築にふくまれるとわたしたちは主張してきた。いいかえれば、わたしたちがじっさいに身にあびている社会的なさまざまな関係のなかで、つくられた意識がどんなふうであれ、ブロック建築をつくろうとする過程でよけいな現象はふるいおとされ、つくる手つき(〈架橋〉)にとってはさけられないような現実の要素だけが、ブロック建築のなかにのこされるということだ。[265-266]

言語にとっての美は自己表出のなかにしかない、という姿勢はここでも貫かれている。その姿勢の根拠となっているのは、社会の高度化によって建築の複雑さが増したとしても、高度化した素材を使って創作をするのはひとりの人間だという視点だ。そして、吉本は、言語にとっての美が自己表出の中にあることを、高度化した社会のはるか以前の時代を想定して簡潔に説明する。

あるひとりの人間が〈海〉と表現したとする。このとき〈海〉という表現の内容とは〈海〉という言語の指示性に、それがふくむ〈海〉の像をくわえた総体のことであり、この表現の形式とは〈海〉という言語をその人間の自発的な契機による自己表出としてかんがえたものに〈海〉の像をくわえた総体を意味する。このようにして内容と形式とは、いつもおなじ総体をゆびさすことになる。つまり表現の総体へ向かってゆくのだ。(改行)この人間は〈海〉という表現の即自としての概念から、対自的な〈海〉という表現に〈架橋〉し、これを対他的な存在までもってゆく。この過程のなかに〈海〉という表現の内容があらわれる。そして、この人間が、なぜ〈山〉という概念ではなく〈海〉という概念を意識したか、というもんだいからはじまり、これを〈山〉と表現せずに、〈海〉と表現するばあい、意識がどれだけのうちからでたつよさと撰びとりで〈海〉と表現したか、いいかえれば意識の自己表出としての面から〈海〉という表現を考えるとき、形式としてみているのだ。[252]
しかし、芸術の内容と形式の関係は、それ(骨組みと粘土の関係)とはちがう。内容にすみずみまで浸透せられ、それ以外には動かしようもないものとしてしか芸術の形式は存在しない、と。[234]

まゆちゃんとのミニカンで「聞かされ手」として言葉を聞いたが、15分間の最後の一言がまさに、内容にすみずみまで浸透せられた形式だったと思う。これは、形式にすみずみまで浸透せられた内容、といってもおそらく同じ意味で、昨日のミニカンの場合にはそのほうがしっくりくる表現だ。

ミニカンでも本でも、「まさにこの一言をいうために、その他の全ての言葉がある」と感じることがあるが、そのときの感覚が、内容と形式が一体となっていることを知覚した状態だと思う。

二、三の言葉で言い表せられる自己表出の核心部分は、それ以外の言葉ではありえず、表現した人間と密接なつながりをもっている。しかし、対他的に(はっきりと知覚するという意味では表現者自身の意識も対他の中にふくまれるのだが)理解をするためには、その核心部分だけの言葉では届かない。それゆえに、その核心部分と対他存在をつなぐ「架橋」が必要になるのだが、言語表現においてそれは表現の核心が浸透した他の言葉、ということになる。

が、これらを因果関係によって説明しようとすると、ヘーゲルの毒は即効性を持って強烈にかけめぐる。おそらく表現者本人にとっても、表現の受け手にとっても、その前後関係はもんだいではなく、ただ密接につながったかたちで表現が行われているという、事実があるだけなのだ。


2015年12月28日 資料・発表:大谷隆 

第Ⅵ章 内容と形式


ヘーゲルの『美学』での内容と形式を吉本は、

芸術が客観化された主観であり、客観化の根拠は、主観そのものの総体性のなかに、その限界を越えようとする衝動として内在するという印象をうける。このばあい、内容は主観的な状態に根拠をもち、形式は客観化に拠点をもつようにかんがえられている。これをさらに通俗化してみると、内容となるべきものが、はじめに、主観的であって、それがしだいにあるひとつのたしかになった形式のなかに実現するところに、芸術の内容と形式の関係があると主張されているようにみえてくる。[Ⅱ-236]

ほぼ同じではあるが、以下も。

内容は、はじめたんに主観的であり内面的なものであって、これにたいして客観的なものが対立しているが、この対立の不満はその対立を止揚するという欲求の方向へむかい、はじめに主観的な内面的な内容としてあったものを、客観的なかたちをつうじて実現され、完全な定在によって充たそうとする欲求をもつようになる。[Ⅱ-234]

これを吉本はヘーゲルの弁証法そのものであるとしている。ヘーゲル弁証法については以下の説明でだいたいわかる。

【弁証法】③ 矛盾を含む否定性に積極的意味を見いだすヘーゲルでは,有限なものが自己自身のうちに自己との対立矛盾を生み出し,それを止揚することで高次なものへ発展する思考および存在を貫く運動の論理をさす。それは思考と存在との根源的な同一性であるイデーの自己展開ととらえられる。ヘーゲル弁証法。(スーパー大辞林)

吉本はこのヘーゲルの形式と内容を『美学』の危ない個所、つよい毒性というが、たしかにこのヘーゲルの論は信ぴょう性をもって聞こえる。そして多くのプチヘーゲリアンという中毒患者を生んだ。現在でも「表現における内容と形式とは何か」といった問が立つとヘーゲル的な回答が模範解答のような強さを持ってしまいそうな感じもある。対して、吉本の主張は、

芸術の内容も形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし、設定されない。そして、これを表現したものは、実際の人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる。その意味では、もちろんこのあいだには、橋を架けることができる。この橋こそは不可視の〈かささぎのわたせる橋(七夕に織姫と彦星がわたる鵲の橋)〉(自己表出)であり、芸術の起源につながっている特質だというべきだ。[Ⅱ-240]
と、表現せられた芸術とそれを表現した人間がいる土台とのあいだの橋を見る。ここからひとつの定義にたどりつく。

芸術の形式は、〈架橋〉(自己表出)の連続性からみられた表現それじたいの拡がりであり、芸術の内容は〈架橋〉(自己表出)の時代的、個性的な刻印からみられた表現それじたいの拡がりである[Ⅱ-244]

ここでいう「連続性」は、

芸術発生の起源からの連続したうつりゆき[Ⅱ-245]

といったような意味だとするとわかりやすくなる。より具体的には、「風媒花」の例(p.251)から、

この一節を内容としてみるということは、もやして灰になった紙片が舞い上がって、(略)風が庭隅から吹きあがるという言語の指示性が展開してゆくさまを、そこにふくまれている像といっしょにみることを意味している。(略)

また、この一節を、形式としてみるということは(この一節の形式とは)、灰になった紙片が黒蝶の羽のように舞いあがり、つぎにコスモスの(略)・・・というように作者がそのとおり文字がつくりだす順序と像にしたがって展開されている言語の自己表出の拡がりとしてみることを意味している。[Ⅱ-245]
表出の展開の仕方には、作者が背負っている時代的、個性的な刻印があって、それが像を伴って、このように表現されている。これが「内容」である。一方で、このような言葉の選び方と順序で表出するには、芸術の起源からの表出の連続したうつりゆきが反映されていて、このように表現されている。これが「形式」である。単純化された例として「海だ。」「海である。」の例があるが、同じことを言っている。いずれにせよ、内容と形式は、表現それ自体の拡がりとしておなじものを指す。

理解のためにポイントとして抑えておくべきはまず、表現の先行性だ。

横光利一の反措定は、すくなくともただひとつの点では、いまでも検討にたえるだけの正当性をもっていた。文学の内容と形式が、表現された文学(作品)そのもののなかでしか、存在しないという前提がはっきりされていること、表現以前には、規定そのものが無意味であると言っていることだ。[Ⅱ-261]

さらに、吉本ではない論者の内容と形式を捨てる。

表現する人間とその社会的土台との間に、文学(芸術)の内容と形式の源泉をもとめた〈マルクス〉主義芸術論者も、羅列された文字の中に内容と形式の根拠をもとめた形式の優先論者も、羅列された文字は、いつも意味(即ち内容)をともなうものだとのべた谷川徹三も、文学の内容と形式の本質を逸したと思える。(略)それらの議論はどれも文学(芸術)の内容と形式が、表現するものと表現せられた文学(芸術)作品のあいだの〈架橋〉(自己表出)に根拠をもつもので、表現する人間のじっさいの存在と社会の土台には、この〈架橋〉(自己表出)を介して濾過されることによってしか、文学の内容と形式に滲入することはないことを勘定にいれられなかった。[Ⅱ-261]

表現されたものの内容と形式は、<自己表出>というろ過装置によってはじめて表現のなかに存在する。ヘーゲルのいうように、内容が「はじめにある」主観的な何か、ではないし、最終的に表現されたものの客観的な姿を形式というわけでもない。あくまでも、表現するということにおいて想定する〈自己表出〉を根拠にしか内容と形式は存在し得ない。吉本は、表現とは何かという普遍的な理論を持たずに内容と形式を論じること自体が無意味だとする。ようするに〈架橋〉(自己表出)を言うだけでこの対ヘーゲリアン議論は終わりにすればよく、内容と形式のどちらが優先されるか、決定権を持つか、そもそも定義は?といった議論は、

文学についての考察を、ひとつの普遍理論としてさしだすモチーフのないところでは、内容と形式を定義することそれだけで、スコラ的な無意味なものにすぎない。[Ⅱ-270]

吉本は、自己表出というモチーフを普遍理論としてさしだしている。以下の部分より、自己表出はより強く像を結ぶ。

芸術としての言語の表出は、ヘーゲルのいうように意識内容の歴史性に還元(元にもどす)することができない。還元にたいして、創出(つくりだす)が芸術としての言語の表出の性格に対応している。これを〈架橋〉するものが、わたしのいう自己表出にほかならないのだ。(改行)なぜ、文学作品が書かれるか、という問いにたいして唯一のほんとうの答えは、言語の自己表出への欲求が、指示表出への欲求とまじわる契機を創出として展開する理由を、たまたまあるものはもつことになり、あるものはもたなかった、ということだ。[Ⅱ-255]

ある文章を読んだ僕がどんなに「まるで僕が書いたようだ」と思ったとしても、それを彼が書き、僕は書かなかった。その理由を、彼と僕が同じ意識、境遇、経験、記憶、思考、時代、感覚、感情、環境・・・を持っていたことに還元できるはずがない。彼だけが、自己表出への欲求が指示表出への欲求と交わる契機をもち、表出の現在に参加したのだ。

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