【12】吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2第8回レジュメ

(作成2015/12/26 小林健司)

詩の表出としていちばん高度な抒情詩では、人間のこころのうちの世界のうごきをえがくことができるようになった。物語の表出では、複数の登場人物の関係と動きを語ることができるようになった。劇においては、登場人物の関係と動きは語られるのではなく、あたかもみずから語り、みずから動き、みずから関係することができるかのような言語の表出ができるようになった。[129]

街頭であれ、ビルの屋上であれ、また祭りの日のやぐらのうえであれ、また劇場の床であれ、実演される場面は、みんな現実とはまったくちがった次元にある舞台で、それじたいが現実から昇華された幻想の場面だということはまったくかんがえられていない。(〜中略〜)境界はひとつの断層だし、またひとつの飛躍だ。それは現実の過程と幻想の過程を仕きる総体的な区ぎりで、この区ぎりには、言語としての芸術が、言語としての劇にまで累積された歴史と、言語としての劇が、現実のいまあるものとわたりあっている所以がこめられている。舞台だけではなく、すべてはみんなおなじだ。[137]

表出史として劇という構成を見る場合、現実世界に幻想の世界を出現させるようなやり方で、物語文までの表出と一線を画した段階に達したことが述べられている。書き言語の表出では、この幻想の世界は読み手の心のなかに現れる。そういった意味で、演劇は鑑賞に「おっくう」であると同時に、ひとたび幻想の世界に入りこんだ者にとっては書き言語よりも強力な幻想の共有作用があるといえる。ここには舞台が古代から持つ儀式性が影響していると思われる。

わたしたちは、華やかは紅灯の街の遊女たちが、ひと皮むけばつましい貧困な生活人であるというリアリズムにならされているが、ほんとうの表現と現実とのあいだは、こういうリアリズムのなかにあるのではなく、そこにあらわれる理念と現実との矛盾と背反にあるといってよい。[189]

近松の優れている点は、まさにこの卑小さの倫理を普遍なものとしてとらえ、これが近世の人間関係にとってほんとうのもので、とても重要なのだということをえがききったことにあった。劇という概念は、このとき完結したすがたで成り立ったといってよい。(改行)これは近松の浄瑠璃をどんなばあいでもつらぬいている根深い劇の思想だった。[212]

言語表出としての劇は、近世の人間にとっての現実と幻想の境界を「卑小さの倫理」という一つの糸で貫いた時に一つの完成をみた。近世の現実と幻想の間に存在したのが、遊女や商人という「無縁の輩」であることは、彼らが中世以前から芸能に携わる職能を司っていた歴史の必然性を感じる。

言語としての劇以前からある土俗的な儀式に通じるため、支配者との相性がよいという意味か?下記、もう一歩理解をしきることができず、議論したい。

狂言は土俗の宿命をかたるが、能は知的大衆の宿命をよくかたっている。[160]
あるがままの大衆の様式はさかだちすれば、すぐに支配者の様式に転化してゆく。[163]
いつの時代でも、支配層は知識人の高度な表出よりも、土俗的あるいは説話的な要素をもった表出を、支配的儀式に直通する可能性があるものとして愛好する。[164]


2015年12月27日 資料・発表:大谷隆 

再び〈飛躍〉とは何か。


詩から物語へと同様、物語から劇へも〈飛躍〉を伴う。詩、物語、劇の表出の移り変わりは簡潔に述べられている。

詩の表出としていちばん高度な抒情詩では、人間のこころのうちの世界のうごきをえがくことができるようになった。物語の表出では、複数の登場人物の関係と動きを語ることができるようになった。劇においては、登場人物の関係と動きは語られるのではなく、あたかもみずから語り、みずから動き、みずから関係することができるかのような言語の表出ができるようになった。[Ⅱ-129]

物語としての言語から劇としての言語が成り立ってゆく過程は150ページに要約されている。そこから幾つか抜き出して物語としての言語と劇としての言語の違いを見る。

(二)(成立しつつある途中の劇の古いかたちでは)すくなくとも作者にとって登場人物たちがじぶんで語り、自分で関係し、それによって事態は進行してゆくということが、イメージとして完全に分離できるまでにはっきりしている。

(三)いいかえれば言語表現のなかに物語はなく、作者が観念の中におもいえがいている場面で、登場人物たちは物語をじかに進行させるまでになっている。

(四)こんなことができるようになったあとに、はじめて言語としての劇は成り立つ。つまり言語の表現自体のなかに、はじめて登場人物はじかにあらわれて、物語をじぶんじしんの手で進行させる。そんなふうにえがくことができるようになる。

(五)言語としての劇が成立したあとでは、それが演ぜられるばあいも、そうでないときも、劇は言語の表現そのもののなかにある。これを演ずるためには、言語としての劇過程と、舞台という対象化された〈観念の場〉とを、二重にわたりあるくことができる俳優という人物と、それを統御できる演出者とが必要になる。[Ⅱ-150-151]

物語としての言語と劇としての言語の間には〈飛躍〉がある。

むしろ物語の概念と、物語の概念をもとにしたひとつの〈飛躍〉として、はじめて劇的という概念は成立したとみることができる。[Ⅱ-156]
構成のうえで物語からの飛躍と断絶が必要だったのだ。そこでは物語るという次元で登場する人物たちが、劇の作者たちの観念のなかでは、完全に生きた人間の輪郭をたもったイメージでじぶんで振舞い、じぶんでほかの人物と関係する。描写されているから人間の輪郭があるのではなく、行動している人物のイメージがほんとうの輪郭をもって振舞うから、物語の次元が超えられている。これが劇が成り立つのにかならずなくてはならぬ条件だった。そして劇の作者たちは、こんなふうに振舞える人物たちを言語の表出から動作の表出へと追いはらい(抽出し)、ただ劇の構成にどうしてもいる要素だけを、言語の表出にのこそうと試みたといえよう。[Ⅱ-156]

この物語と劇との違いを、現代においての劇(ドラマ)脚本で検証してみる。

布部駅ホーム

 列車がすべりこむ。
 ホームにおり立つ五郎、純、螢。
 三人、階段の方へ歩く。
 歩きつつ五郎、改札のほうを目でさがす。
 純と蛍をつつき、改札のほうを指し示す。

同・改札

 伸びあがって手をふっている北村草太。

同・駅・表

 車へ歩く草太と三人。歩きつつ。
草太「よく来たよく来た。お前が純か」
純「ハイ」
草太「あんまり純って面でもねえもンな。ハハッ。お前は何ていったっけ」
螢「ホタル」
草太「アアそうだ、ホタルな。イヤイヤしゃれっぽい名前をつけたもンな。夜になるとお尻光っちゃうンでないの? ヒヒッ」
螢「——」
草太「だけどおじさん。この子めんこいわ。奥さんに似たンだな。よかったな。ヒヒッ。
 ああこの車」
車をけとばす。
草太「ボロだべ。たまげたかい? さ、乗ってくれ!」(倉本聰「北の国から(前編)」)
これをもし仮に、物語(小説)として、なるべくそのまま描くと、

五郎は純と螢をつれて布部駅に降り立った。ホームの階段を登りながら五郎は迎えに来ているはずの甥、北村草太の姿をさがした。それはすぐに見つかり、改札で大きく手を振っている。改札を通るなり草太は、陽気で人懐っこい笑顔を見せて話しかけてきた。
「よく来たよく来た。お前が純か」
「ハイ」
純は草太に圧倒されつつ戸惑いながら返事をする。
「あんまり純って面でもねえもンな。ハハッ」
続いて螢に、
「お前は何ていったっけ」
「ホタル」
「アアそうだ、ホタルな。イヤイヤしゃれっぽい名前をつけたもンな。夜になるとお尻光っちゃうンでないの? ヒヒッ」
下品な笑いに螢の顔は歪む。
「だけどおじさん。この子めんこいわ。奥さんに似たンだな。よかったな。ヒヒッ。」
草太は歩きながら、傍らの古い型のバンを
「ああこの車」
といいながら乱暴に蹴飛ばし、
「ボロだべ。たまげたかい? さ、乗ってくれ!」
と三人を車に乗せた。(上記脚本を大谷が小説化)

いずれも、すでに劇・小説としての言語が成立した現代においての表出であることに注意する必要があるが、吉本の言う、

物語るという次元で登場する人物たちが、劇の作者たちの観念のなかでは、完全に生きた人間の輪郭をたもったイメージでじぶんで振舞い、じぶんでほかの人物と関係する。描写されているから人間の輪郭があるのではなく、行動している人物のイメージがほんとうの輪郭をもって振舞うから、物語の次元が超えられている。

ことのおおよその〈飛躍〉感覚はつかめる。物語ではその内部で描かざるを得ない舞台設定、人物造形、感情や感覚、視点の描写は、劇の脚本(戯曲)では、現実の舞台・俳優・道具・観客に取って代わられ、言語としては最小限しか残されていない。この脚本を元に、境界としての舞台を超えて、役者が演じ、演出者が統御することが劇の総体となる。

物語として描く場合、脚本では消えてしまっている描写をどう言語として書くか、ということが問題になるが、この問題は劇においては、役者と演出者に大きく委ねられていると言える。

僕たちは、こうして詩、物語、劇のそれぞれとしての言語の表出が可能になった時代に生きている。

詩、物語(小説)、劇はそれぞれが独立しているように見えるが、それを一つの表出の〈飛躍〉の時間的流れとしてみることができる。この〈飛躍〉を吉本は、社会情勢から見るのではなく、一貫して構成の飛躍として説く。ここに吉本の表現論の独自性がある。

※130ページ第4図は
②’→①’
①’→トル
が正しい気がする。「劇的言語帯にはいってくる物語性は、日記物語と説話物語のほかにはない。」[169]









演劇がなぜ大衆化しないか?(改行)その理由は理論的には簡単なことだ。ひとびとが手ぶらで観劇にでかければ、まず物語の帯域をとおり、つぎに劇の帯域にはいるという二重の過程を、演劇の進行につれて同時に観念の運動の中に繰入れなければならないおっくうさがあるからだ。(〜中略〜)観客にまず物語帯にはいってから、観劇にやってきてもらう方策を講ずることのほうが、あるかに本質的だということは、申すまでもない。言語としての劇(戯曲)をよむことが、小説をよむよりおっくうなのも、これとおなじだ。劇という概念は、それ自体が物語を踏み台にした高度なものだからだ。[142-143]







Share: