【12】吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2第7回レジュメ

(作成2015/12/26 小林健司)

吉本が物語文学の美について述べるところを、個別の作品の表出史としてではなく、詩から物語への移り変わりという観点からまとめれば、「作者から対象への一方通行の一人称的な視点から、複数の登場人物の「相聞」による多方向の視点という構成への転換」ということになる。

その転換の背景には、作者を取り巻く「社会」の中で「人間関係」が重要になっていくプロセスが存在している。

すくなくとも物語の担い手であった律令国家の知識層のうちで、現実社会でぶつかったさくそうした人間関係を表現にまでとりださないと、現実の共同性をたもちえないという認識が成熟しつつあった。このことは物語文学の成立にとってひとつの外因でもありえたのだ。[90]

嘘ばなしの根拠は、個々の人間の弱さや欠如感や苦しまぎれの心理的な規制のなかにあるというよりも、かれらが現実の社会のこまかな人間関係の個々の真実に、リアルに深く気づくようになればなるほど、それらを言語の〈仮構〉へとおしやろうとする存在の社会的契機のなかにあったといったほうがあたっている。[91]

この転換は現在にまで続いている。表出史としての意味を横に置けば、「失楽園」がバブルの終焉期における中年の恋愛関係を描いた作品として流行したり、「バトルロワイヤル」に代表される未成年が殺し合いをする中で究極的な倫理観の選択を迫られるような作品が流行していることは、単に作品の話題性によるものだけでなく現代社会の人間関係を「嘘ばなし」として迎えられていると考えられるのではないだろうか。

物語言語は、指示表出の底辺である〈仮構〉線にまで〈飛躍〉することで、詩とちがうひとつの特質を手に入れた。それは、仮構のうえで現実とにた巡遊の回路を手にいれたということだ。そこではたんに叙事詩のように、作者じしんの影がじかに巡遊するのでもなく、作者の自己表出の構造としての抒情詩でもなく、複数の登場人物が、あたかも現実の社会のなかでのように振舞い、ほかの人物との関係をもち、生活するといった構成をひろげることができるようになったのだ。[102]

『宇津保』が主題の統一をはかるためにみちびいたのは、ある部分社会のなかの人間関係と、男女の相聞だった。ことに男女の相聞を、クモの糸のようにはりめぐらせることで物語の構成の流れは普遍的にむすびつけられたのだ。たぶん『宇津保』によってはっきりしたかたちをとった男女の相聞をもとに構成を連環させる方法は、物語文学の成立にとって本質的なものだった。[114]

叙景詩の時代ではまったく自然の風物による〈暗喩〉としてしかあらわせなかった人間と人間との情感の関係は、抒情詩時代に入って内在化され、ついで物語が成立するにつれて、人間と人間との構成の関係の意味をになって登場した。[115]

円坐での自己表出は、もちろん物語的な構成を含んでいるが、そのことは詩的な自己表出性を含んでいることも意味している。だれかと関係するために発せられる言葉の以前に、自分の内面を巡遊する影を追って暗喩のように(それが具体的な事物を指し示す言葉であっても)、独唱する詩を発するような自己表出があることを、これまで何度も確認してきた。



2015年12月27日 資料・発表:大谷隆 

〈飛躍〉とは何か。


吉本は、物語文学の成立にあたって、

詩は共通感をもとにして、わたしたちにちかづく。だが物語は同伴感をもってわたしたちをつれてゆく。物語としての言語はまずひとをひきつれてゆくための〈仮構〉線をつくり、それをとって本質へゆこうとするのだ。
詩の発生の時代では、まずはじめに言語の構成は、人間と人間との地上的な関係が融けあったすがたを象徴したが、物語が文学として成立したとき構成そのものの基底は、ある〈仮構〉線にまで上昇した。[82]

こんなふうにして(抒情詩と儀式歌の向上が新たな物語言語を成立させた)物語としての言語は、抒情詩と儀式詩の自己表出の頂きを、ひとつの〈仮構〉の底辺とする言語表現の〈飛躍〉として成り立った。(略)物語の言語は、たんなる自己表出の尖端の上昇ではなく、いわば自己表出の線(水準)としての上昇を手に入れたからだ。(p89図2)[88]

自己表出の水準が〈仮構〉線にまで〈飛躍〉したと言う。

この〈飛躍〉を想定せずに物語の成立を説くのが折口信夫(と柳田国男)だ。折口・柳田は、この〈仮構〉性を「嘘ばなし」に結びつける。嘘ばなしは、説話の起源でもあり、無文字時代から口承されていると考えられる。さらに折口は、<貴種流離〉譚を「日本の物語文学の本質をつらぬくもの」とした。

しかし、と吉本は言う。

しかし、ここでも(詩の発生と同様に[Ⅱ-41])、折口は支配の最上層と、被支配の部民層とを直通してむすびつける。そこには、部民層から発し、部民層と離れることによって、文化はすべて共同体から孤立した人格の手にわたり、それを媒介せずには、どのような上昇も行われないという契機はぬけおちている。これは、折口説に矛盾をあたえずにはおかなかった。(略)

その理由は折口が、九世紀後半いらいの物語文学の成立を、詩の時代から連続する面(自己表出の側面)からだけとりあげて、言語の表出意識が、ひとつの〈仮構〉線を設定できるまでに〈飛躍〉したという契機をとらえずに、いわば、詩と物語とを同位にあるものとしているためだといえる。[Ⅱ-101]

物語のなかで、人物たちが巡遊できるためには、すでに言語帯が、まったく普遍的に〈仮構〉線を設定できるまでに、詩の言語の時代から〈飛躍〉したという前提なしにはかんがえられない。

ひとびとは、あるいは現在の小説の常識からかんがえて、書き言葉の表現のうえで、作り話をつくりあげることが難しかった時期が、物語の成立のはじめにあった、ということを不思議におもうかもしれない。だがたしかに、そんな時代はあったのだ。

口承物語をかんがえなければ、詩の発生とおなじ悠遠の太古にまでさかのぼることができるにもかかわらず、抒情詩時代の言語の自己表出としての登高をへなければ、言語は作り話の世界を、書き言葉にかきとめることはできなかった。

折口信夫のいわゆる〈貴種流離〉譚の説は、言語表現が連続するという面からは、物語が成り立つまでになった過程をとてもするどく抽出しながら、物語文学の成立が、原生的な詩の表現の時代からの言語水準の〈飛躍〉をひつようとしたという契機を、どうしてもみのがすことになってしまった。[Ⅱ-102]

簡単に言うと、折口は口承からの連続的な物語の成立を見ているが、吉本は「物語文学=書き言葉での物語」の成立として言語面の〈飛躍〉が必要だったと言っている。『竹取』を物語の最初とするのであれば吉本の見解が正しい。(口承による語り物と文字としての表現に「千里のへだたり」があることは、「詩」に関しては折口自身も身を持って知っていたと吉本は見ているが[Ⅱ-21]、折口説はそれが徹底されていないということか。)

さらに、吉本は物語成立のための外因として「仮名文字の浸透」に加えて、

土俗信仰が昇華して儀式制度にまでなっていた神道にたいして、とくに律令制からあと底深く浸透した仏教が、あらたな思想を知識層と大衆層に定着させたこと[Ⅱ-93]

を上げている。この「土俗信仰に代わるあらたな思想」は、具体的には『竹取物語』では、

土俗的な土地神にくっついた言語信仰を、観念語にたいする言語信仰におきかえようとする作為が、それ自体として『竹取物語』の言語としての〈仮構〉線の水準を象徴している。
『竹取物語』のライト・モチーフは、王権に対する神権の優位を、かなり原始的なかたちでつらぬいている点にあるとおもえる。[Ⅱ-108]
かぐや姫は、(略)神事の担い手としての「帝」の力も、ふりきって昇天してゆくという構成の展開のなかには、はじまりの書き物語として成立した契機がすべてこめられている。[Ⅱ-109]

とする。ここまでで吉本自身が立てた問の答えの一部にもなっているのでまとめておく。問は、

物語(散文)文学の成立は、なぜ、そしてどんなふうに詩的時代のあとにやってくるか?
日本の物語文学が律令制の解体と摂関制への移行に象徴される九世紀後半から十世紀にかけて成立したのは、どんな必然と偶然の契機によるのか?
日本の物語(散文)文学の成立の時期に、構成の原型はどんなものであり、どんなふうにうつりかわっていったか?[Ⅱ-87]

1番目の前半「なぜ」・・・書きとめるためには(儀式詩の成立と)抒情詩による自己表出の登高が必要であるから

1番目の後半「どんなふうに」・・・抒情歌と儀式歌からそれぞれ独立に歌物語系と説話系という基底が生じて

2番目・・・・・・仮名文字の浸透、仏教を経た新たな思想、(加えて、巫女から女房へ:折口)

3番目の前半「どんなもの」・・・『竹取』での帝よりも上位の存在をつらぬき、翁物語(口承)のアレンジを遥かに超えるきんみつな構成

3番目の後半「どんなふうに」・・・『伊勢』などの歌物語、日記を経て『源氏』の説明より(省略)。

これらが〈飛躍〉によって生じたことである。で、〈飛躍〉とは何か。

構成としての言語は、詩と物語のあいだでは、いわば〈仮構〉線をさかいにして〈飛躍〉するということは、わたしたちがみちびいたいちばん大事なシェーマだといえる。そしてこの〈飛躍〉は、言語を自己表出としてみれば、ゆるやかな連続性だが、指示表出としてみれば〈仮構〉線を底辺とするあたらしい言語帯への跳躍であるとかんがえた。詩と物語のばあいの構成の共通性をぬきだすと、つぎのようにいうことができよう。文学作品の構成とは、指示表出からみられた言語がひろがってゆく力点が転換されたものをさす。[Ⅱ-126]

つまり構成の<飛躍>的な違いである。このことは逆方向からすでに書かれている。

文学作品の構成(うねりとその積み重なり)が、なにを意味するか問うことで、このもんだい(小説では、構成が作品の価値にかかわる重さが、芭蕉の短詩よりもはるかにおおきいというもんだい)は解けるはずだ。
方法はふたつかんがえられる。一つの方法は、詩と散文と劇の成立点で構成の意味とそのいろいろな類型をはっきりさせることだ。[Ⅱ-12]

吉本の文学論は、文学というものを徹底して社会や政治の状況に還元させずに進む。 




2015年12月27日山根澪



吉本は西郷信綱『源氏物語の方法』を引用したのち、

失礼な申し分だが、ここには眼をおおいたいような混乱がある。口承としての物語の流布と書き言葉としての物語の成立と、その中に突出した詩の書き言葉としての短歌の意味と、まったき書き物語としての散文の成立の時代とを、無差別にとりあつかおうとするために、散文のさかえた平安朝時代は、特殊な時代であったかのような推論に導かれている。 
なにかが、このような見解には脱落している。この脱落はわたしを苛立たせる。いつの日か、わが進歩派たちは、それに気付くであろうと信ずるほかにすべはない。わたしたちは黙々とこれらの迷走を突き抜けてすすむだけだ。(106)(傍点は山根が追加)

なぜ苛立つのか。「なにか」とは、なんなのか。西郷氏の表現に似たが文章が「鴨居玲展-踊り候え-」図録に見られ、これがわたし(山根)を苛立たせたので説明のためにまずこれを引用する。

鴨居玲作「蛾」(1976年)の説明として、

鴨居は蛾をモチィーフにした作品を、数点制作している。その多くでは、しゃべることの空しさの表れとされる蛾が、すぐ近くを飛んでいるのに、描かれた人物は関心を示さない。それに対してこの老人は、驚きとも切なさともとれる表情で、目の前の蛾を見つめている。暗く重厚な画面の多い鴨居の絵の中で、この作品は、淡く柔らかな色調で表現され、詩情あふれる雰囲気に仕上がっている。[60]

まず、この作品を見るにあたって、他の蛾をモティーフにした作品を参照する必要はない。そして、わたしにはこの老人が目の前の蛾を見つめているようには見えない。わたしには老人がこの蛾を認識したまさにその一瞬のように見える。蛾がこんなに近くにくるまで気づかない集中のなかにいた老人が、蛾の羽音か、蛾が目に入ったかで、「驚き」とともに深い内省から解かれる、そして老人はそんなふうな集中に入ってしまわざるをえない自分自身を思い「切なさ」のようなものも感じたのかもしれない。白っぽい背景はおそらく、まだ蛾しか見ることができない老人の凝縮された視界そのもので、この瞬間において蛾以外のなにものにも意識が及んでいない。そのため背景は視界の真空状態、視界のなさの表現と見える。「柔らかさ」はおそらく色のイメージから引き起こされたのかもしれないが、わたしにはそうは見えない。そして、この一瞬の後、老人が「見つめ」るように蛾を追い続けた可能性は低いだろう。

 西郷氏の見解(平安朝の物語のなかでの散文の多さを指摘し、そこに時代の特殊性を見ること)や図録のような見方(蛾を「しゃべることの空しさの表れ」と見ることから絵を読み解こうとすること)、もしくはプロレタリア文学運動を通して見るというようなこともそうかもしれないが、バイアスがあるとか、色眼鏡で見るとか、自分自身の考えに何か付け加えた見解だと私は思っていたけれど、吉本はそこに脱落を見る。

 ここでは自己表出を捉えそれを指示的に説明しようとする試みが倒錯し、指示表出(蛾=「しゃべることの空しさの表れ」など)を捉えそこから解釈広げようとしたために混乱に陥っているように見える(もちろん、指示性から読みとくべき絵も存在する)。ここでなにが脱落しているのか、簡潔に言うのは難しいが、自分の目で見てそのまま語ろうとするある種の意思が脱落しているため、そこに統計的な正しさへの傾倒やシンボルなどの社会的なものを最初から考慮して語る余地が現れるのだろう。

 そしてそこにわたしが苛立ちを覚えるのは、いくら自分が全力でそれを行おうとも、他の人には見えるが自分自身に見えないものがあり、今か後の時代なのかはわからないが、いかに普遍性を追い求めようと私が新たな西郷氏や図録になることへの恐怖を直視させられるからかもしれないし、わたしが図録に期待し翻弄されるからかもしれない。そのような正しさが一般的に是とされる傾向そのものかもしれない。吉本の苛立ちもそのようなものだったのだろうか。

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