【13】加藤周一『現代ヨーロッパの精神』第1回発表資料

2015年11月28日 資料・発表:大谷隆

本書が書かれたのは、1955年から1959年(1章は1955年)。1945年に第2次大戦が終わり、その後約10年。つまり本書でいう「現代」を別の言葉にすると「米ソ冷戦時代(1945-1989)の初期」である。この時代にヨーロッパはどういうことになっているのかを書いている。本章の概説を試みる。

1 ヨーロッパ思想・新しい現実との対決


第二次大戦後は第一次大戦後と大きく異なっている。加藤は端的に「行きづまっている」[2]とする。第一次大戦後は「国際連盟の与えた夢(永久平和)があった」[3]。この行き詰まりを「新しい現実」と見て、それとの「対決」がヨーロッパ諸国でどのように行われているのか。まず、「行き詰まり=新しい現実」とは、

第一は、米ソが圧倒的な政治・経済・軍事的な力をもち、したがって国際政治の舞台でのヨーロッパの意味が相対的に小さくなったということである。第二は、インド、中国に始まり今や中東からアフリカに及ぶ旧植民地、または半植民地に民族主義がおこり、したがって西欧植民地帝国の維持が困難になってきたことである。第三は、各国の国内で労働問題がいよいよ社会の決定的問題として意識されてきたことである。もう一つ加えるとすれば、おそらく第四には、大量生産と機械化に伴う労働の非人間化、さらに社会生活の全体についての画一化ということであろう。[6-7]

この時代のヨーロッパにとっては「異質な対象」ではあるが、もともとはヨーロッパの思想から出てきたもので、それをもう一度、ヨーロッパの思想自身のなかに同化しようとする試みが、今日(1955年)のヨーロッパの「唯一の課題」[9]である。これを社会思想上に持ってくれば、「伝統的な民主主義と社会主義の要請とをどういう形で折り合わせるか」[10]とも言える。同じ問題を形而上学的に言うと、

民主主義:個人・自由・合理主義的立場
社会主義:社会・必然・歴史主義的立場

となる。「要請」という言葉からわかるように民主主義と社会主義が対立するものであるというよりは、民主主義の根本部分に対する変更を「新しい現実」が迫っている。続いて加藤は、社会思想上の「試み」の例としてイギリス(コール)を、形而上学的側面の例としてフランス(サルトル)を描く。

イギリスの状況を加藤はG.D.Hコールを援用し述べている。

(コールの一連の論文を要約すると)資本主義社会から階級のない社会への移行が、マルクシズム以外の方法によって可能であるか。移行の過程に西欧的な意味での民主主義の原則を貫きながら社会主義へ到達することができるか。労働党がかなりの程度まですでに実現した福祉国家の現状と比較し、今後労働党にはとるべきどういう道が考えられるか。[11]

労働党は1945年から1951年まで政権をとった。この5年間で、

労働党の掲げた目標——重要産業の国有化、完全雇用、福祉国家、階級差別の撤廃という目標の中で、五年間に完全雇用と福祉国家はおよそ実現し、国有化は全く不十分にしか実現されていない。経済的な階級差別については、賃金収入の平均化という点ではおよそ成功し、相続財産の平均化という点ではほとんど何もなされていない。また文化の階級による独占ということも、事実上存在している。[23]

しかし、この福祉国家の実現は、逆に「労働者の組合運動と政治問題に対する無関心」につながる。

そこで必要なのは社会主義者の「世界的な規模での倫理的な運動」とコールは言う。[25]

コールに対して加藤は「英国の戦後のヨーロッパ思想に対する最大の寄与の一つ」と評価しつつ、

殊にそれが共産主義以外の立場から、あらゆる種類の植民主義、または帝国主義に対して終始一貫して徹底的に批判的であるという点に、日本人としての特別の興味[26]

を感じている。

続いてフランス。イギリスとの違いはフランスでは労働者の党が共産党であることに由来する。サルトルが抱えた矛盾もここにある(カミュは拒絶した)。

彼の場合のように、労働者の側にたとうとする動機が、自己の自由の実現ということにあるとすれば、スターリン時代の共産党と共に個人の自由への圧迫をみとめることは、矛盾である。[29]
(この矛盾は2つの立場を生むが)二つの立場は、それぞれ政治的な用語で言えば、西欧的な民主主義の原則を貫こうとする欲求と、そのためには現に社会的不正の被害者である労働者と共に戦うほかはないという事実の認識を前提としている[30]

この「労働者と戦うほかない」ことをさしてカミュは「なぜマルクシズムの歴史観に従うのか」と攻撃する。これに対するサルトルについて加藤は、

(サルトルのカミュへの返答)「現在のわれわれにとっての自由とは、自由のために戦うことをみずから択ぶ、その選択以外のものではない。」——むろんこれは理論としては弱いだろう。しかし感じとしては強いものにちがいない。
私が先に民主主義的原則と共産主義・共産党との対立ということばでいった問題は、ここでは、人間精神の自由と歴史の意味または必然性との対立という形而上学的な問題としてあらわれているのである。その対立への解答はまだ出ていない。しかし問題を正面から受けとっているのが、サルトルだということは、みとめないわけにゆかないだろう。[35]

とする。本章は主にこの2つ「イギリス(コール)」と「フランス(サルトル)」が描かれている。

おまけとして「ドイツの問題の一つはファッシズム」であり、「ナチズムを一つの畸形的な結果として生み出した精神と文化は、まだ多くの問題と可能性とを含みながら、まだ一向に片付いていない。」[38]。東欧は、まだはじまっていないが「はじまるにちがいない」[41]。追記に詳しいが、東欧は確かにこの後「はじまる」。

本章を読む限り加藤はこの時期のヨーロッパに、民主主義から社会主義への道筋を、希望を持って見ようとしていたのではないか。現代世界史と現代社会思想の勉強になった。
Share: