【12】吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2第5回レジュメ

配布資料(作成2015/11/28 小林健司)

吉本は〈意識〉の時間について明確に述べる。[331より]

でも残念なことに意識にとっての〈時間〉や、意識の表出過程としての〈時間〉は、この生理的な〈時間〉と自然の〈時間〉に外からはさみうちされ、両者の矛盾にさいなまれて、あげく虚空にとびだした動きを指している。この〈意識〉の時間は、生理的な〈時間〉や自然の〈時間〉とちがって、生理現象や自然現象の速さに還元することができない。生理過程の恒温性や宇宙の空間の時空性の軸に対応づけられないからだ。それにもかかわらず意識の〈時間〉をある基礎の構造に還元しようとすれば、わたしたちが存在している〈現実〉と、外化されているわたしたちじしんの幻想とが、かかわりあっている領域に対応させるほかはない。

文体や語尾の強さから、この著書に貫かれている吉本の明確な視界が記述されていることに間違いはない。しかし、おそらく吉本の見ているものは仏教の原理的な思想や、古今東西の思想家・瞑想家の話している内容に通じていて、それを「文学における美」つまり「言語にとっての美」という観点から精度高く説明しきっているところに吉本の不気味なすごさがある。

じぶんの理解のために吉本の言うことをまとめる。人間の意識は、身体に根付いた生理的な〈時間〉とも、外界の刺激をもとにした自然の〈時間〉とも、別の位相にある。ここでいう「自然の時間」は、人間が感覚器官を通じて感知する時間である、という点において「生理的な時間」の一部だと言うこともできるし、両者が対応していると言ってもかまわない。重要なのは、人間が感覚器官を通じて感知する時間と意識の時間がズレているということだ。「恋人と話をしていたらあっという間に時間がすぎてしまう経験はだれでもしたことがある」という後年の吉本の講演での比喩が、そのことを分かりやすく示している。数時間をまるで数分のように感じる「意識にとっての時間」は、寒暖の感覚やトイレに行きたくなるといった生理現象がその間にどれだけの回数や大きさであったかという「生理的な時間」に対応させることはできない。また、じぶん以外の外界の変化、日が落ちる長さとか前を行き過ぎる人の数といってものによっても対応させることはできないどころか、客観的な観測をすれば矛盾した状況に陥ることになる。これは、寒さも暑さも全く気にならずトイレに行きたいと言うことも恋人と分かれた後に気づいた(生理的な時間ではとても短いと感じた)にも関わらず、目の前で乗る予定だった電車が何本も通過していたことは目にしていた(自然時間ではかなり長い時間が経っていると認識できた)というような矛盾だといえるはずだ。

吉本はさらに、表現における時間と空間について続ける。

この作者の表出の意識の〈時間〉性は言語の指示性と交錯をまがりくねったり、とまったりして流れる〈時間〉がきめている。いいかえれば、自己表出としてみられた言語の〈意味〉の流れによってきまる。これは表現の意識の〈空間〉性が、指示表出としてみられた言語の〈価値〉のひろがりによってきまるのと対応している。こういったいい方は、いままでかんがえてきた言語表出の概念からはあきらかに矛盾だと気づくはずだ。(改行)たしかに表出の意識の〈時間〉性は、表出の意識の〈空間〉性とおなじように、それ自体が矛盾だといっていい。その〈時間〉は、生理的〈時間〉や自然的〈時間〉をまったくふりきったとき、ほんとの〈時間〉を手に入れる。表出の〈空間〉が、自然的な〈空間〉や対象の〈空間〉をまったくふりきったとき、完全な〈空間〉がかんがえられると同じように。[332-3]

吉本は、自分の書いていることに矛盾が含まれた上でなお論理的である水準を保つことを自覚しておこなっていることに改めて驚く。

ここで時間と空間について述べていることは、喩や像について述べられていることと対応している。

言語の像は、もちろん言語の指示表出が自己表出力によって対象の構造までもさす強さを手にいれ、そのかわりに自己表出によって知覚の次元からはるかに、離脱してしまった状態で、はじめてあらわれる。あるいはまったく逆であるかもしれない。言語の指示表出が対象の世界をえらんで指定できる弱さにあり、自己表出は対象の世界を知覚するより以前の弱さにあり、反射をわずかに離れた状態で、像ばかりの言語以前があったというように。[118-9]

像または意味的な喩が成り立つためには、感覚的な意識が、言語表出に場所を、いわば空間性をあたえなければならない [156]

自己表出が意味の流れをつくるほど世界を取り入れたとき、自分の中にはもう一つの世界が作られる。これを反対から言えば、指示表出が自分の中に価値をつくるほど世界を取り込んだとき、現実の世界を離れた世界が作られる、ということになる。

こういったばあい、「文庫版まえがき」で吉本自身がいうように、自己表出と指示表出は実際には分かれて存在しているわけではなく、両者が関係しあって一つの表出や表現を形づくっている。

しかし、この時点のでの吉本は、まるで別々に存在しているかのような書き方によって理解が難しくなっている。個人的には「自己表出」という言葉には、何かを指し示すニュアンスも含んだものを感じる。言語の対自面と対多面という言葉の方が理解をしやすいのではないだろうかと思う。

戦後表出史でとりあげられている作品とその解説を読んで思い浮かぶのは、ぱーちゃんのブログ「僕にとって書くことや話すこと」だった。あの文章には、時間も空間も現実を離脱した位相で表現されている。

驚くのは、戦後時間が経つにつれて文学の世界からは時間や空間が再び現実と対応した表現に戻っていくことだった。戦争体験によって出現したのは「すでにじぶんの意識がじぶんの意識を対象にすることさえできないほど崩壊した〈私〉意識の姿だった。これは表出としては〈時間〉的な秩序をうしなっていることを意味した。」[338]というような表出だった。

これと同じ質感の表出に、自覚的に近づいていこうとしていることや、現代を生きる上でそういった自覚的な〈私〉意識の崩壊は、現代をどのように生きるかということと強く結びついていると、ぼくは考える。

加藤周一は「現代ヨーロッパの精神」の中で、「ヨーロッパで文学・思想・芸術の活動を抑えた第二の外的要因は、あきらかに戦争の惨害である。精神的荒廃に加えて、圧倒的な物質的荒廃が加わった。」[4]としている。日本でもヨーロッパと同等かそれ以上の荒廃があったにも関わらず、文学史(表出史)においては、新しい表現が生まれている。このことはどう捉えればいいのか。精神や物質の荒廃に影響されるヨーロッパの芸術のあり方とそうではない日本のあり方なのか。両地域で個人主義の広がった時期の違いなのか。

戦後表出史は、当然だが吉本がこの著書を書いた時代の手前までで終わっている。その後、表出史はどう移っていったのか、現代をどう読み取るのか、それがじぶんに残された課題だと感じる。


2015年11月29日 資料・発表:大谷隆 

前回のゼミで提示した「文学体」と「話体」について、ある程度の感触は得られるようになってきた。ゼミ後に小林氏が調べたように、最初の段階としては明治期の文語文=文学体と言文一致体=話体であり、その後、それらはそれぞれが変化しながら、交じり合ったり、また分裂したりする。吉本の鋭い読解センスにおいて、その変化や交じり合い、分裂を、明治期以降、大正、昭和の文学に対しても嗅ぎとることができるということだろう。そしてその文学体、話体に共通する表出面を読み取ると、その時代においての人々の意識の有り様に対応している。それが第Ⅲ部現代表出史論、第Ⅳ部戦後表出史論の内容である。

大正末年、

個人の存在の根拠があやふやになり、外界とどんな関係にむすばれているかの自覚があいまいで不安定なものに感じられるようになると、いままで指示意識の多様さとしてあった一つの時代の言語の帯は、多様さの根拠をなくしてただよってゆく。〈私〉の意識は現実のどんな事件にぶつかってもどんな状態にはまりこんでも、外界のある斜面に、つまり社会の構成のどこかにはっきり位置しているという存在感をもちえなくなる。[281]

そのとき表出は2つの経路をとる。

一つは横光利一の「蝿」「頭ならびに腹」「ナポレオンと田虫」などで、

これらの断片があざやかにしめしているのは、表出の対象が等質だということだ。[285]

もう一つは、佐藤春夫「都会の憂鬱」、中条百合子「伸子」などで、

そのささいな対象を表出によってある時間のなかでこころの内におこった好悪や内省のうごきを拡大鏡にかけ、まるで凹凸のある具体物をなぞっているようにとらえている[288]

これを表出史として見る場合は、

近代の表出史ははじめて大正末期に、ある想像線を設定し、その想像線の中では現実的な序列と違った表現の対象があつまって、並列にならぶことができた。その無秩序が表出としてありうることを確証したと言ってよい。これは表出史としてみれば、現在までにかんがえられる最後の水準に言語空間が足を踏み入れたことであった。[286]

となる。これを「文体革命」[291]という言い方もしている。この革命後、1,2年安定期に入り、その後、文学体と話体とのあたらしい分裂に向かう[301]。文学体は横光利一の「機械」が担い、その文学体の成立によって太宰治の話体が登場する。

近代の表出史はその歴史のなかで、いくどか新しい文学体と話体との分離を体験してきた。この分離はふたたびあるところまでくると拡散して軌道がかさなりあい、つぎに融和して、その状態からふたたび新しい段階での文学体と話体との分離をおこす。そしてこの過程はいくども反省するとかんがえられる。[311]

こうして、その後も文学体と話体との分離、拡散、融合が繰り返されていくさまを精密に吉本は描き、本論が書かれた時代まで続く。


以下は、吉本の文章に対する印象論。

ここまで読んできて思うのは、吉本の文章の独自性の強さと濃密さがある。昨日のゼミで呼んだ加藤周一「現代ヨーロッパの精神」の文章と印象を比較してみる。

前提として加藤周一は、深いところにある核心を見抜く鋭い視点を抜群の平衡感覚で振り回せる点で優れた書き手である。一般に深いところまで届く鋭い視線と平衡感覚とはなかなか両立しないのだけど、それを実現している。だからそこに面白さと信頼感がある。その上で書き方についていうと、たとえば「伝統的な民主主義」などといった大きな概念をさらっと使う。この「大きな概念をさらっと使う」というのが僕の中にどういう像を結んでいるかというと、遠くに浮かぶ大きな雲の塊があって、その雲はもちろん刻一刻と姿を変えたり、見る角度によって姿が違って見えたり、そもそも、雲の輪郭自体も曖昧である。そういった遠くの雲を指差して「伝統的な民主主義」と加藤はいう。加藤は当然、その雲をいろいろな面から精密に調査しているので、その言葉の使用方法は間違えないが、読み手にとって、この一語が、それが使われている文脈によって、どの側面のことを指しているのかを読み取らなければならない。そのためには、書かれている文章以外にも予備知識的にその雲を調査しておく必要がある。

一方吉本は、遠くにあるものは一切使わず、手元に現実にある膨大な過去の文学をいったん全部胃袋に入れて消化したあと、その結果吸収した栄養の塊のようなモノを自分の手で内臓や血管から引きずり出してきて、並べてみせる。この時、その塊のようなものは、読み手にとって見たこともないようなモノであることも多く、また、それを並べていく並べ方も、見たことがない。そして、そのことは吉本もよく承知していて、だからその見たこともないようなモノがどういったものであるかをヒックリ返したりしながら、しつこく見せてくる。その並べ方もしつこく説明してくる。その結果、他を参照する必要なしに、吉本のモノだけでそれを並べあげて、言語空間を構築する。これが独自性と濃密さとなって現れている。

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