【12】吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2第3回レジュメ

2015年11月15日 資料・発表:大谷隆

■韻律・撰択・転換・喩

書く、とは。文学とは。

書くという行為で文字に固定すると、表出の概念は表出と表現に分裂する。具体的には語りのような、音声による文字表現と文字に書かれた文学とが分裂するようになる。ここまでひろげることで、文学の表現論はすべての文学理論と違った道に一歩ふみこんだことになる。[128]

「表出が表出と表現に分裂」というところの意味がとりにくいが、前章でくわしく書かれている。前回のゼミで焦点にならなかったので、改めて引用する。

文字の成立によってほんとうの意味で、表出は意識の表出と表現とに分離する。あるいは表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつようになったといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめてほんとの意味で生まれたのだ。文字にかかれることで言語の表出は、対象になった自己像が、じぶんの内ばかりではなく外にじぶんと対話をはじめる二重のことができるようになる。[110]

さらに、

このことは、人間の意識を外にあらわしたものとしての言語の表出が、じぶんの意識に反作用をおよぼすように戻ってくる過程と、外にあらわされた意識が、対象として文字に固定されて、それが〈実在〉であるかのようにじぶんの意識の外に〈作品〉として生成され、生成されたものがじぶんの意識に反作用をおよぼすようにもどってくる過程の二重性が、無意識のうちに文学的表現(芸術としての言語表出)として前提されているという意味になる。[121]

この文字として固定され、それが〈実在〉であるかのように〈作品〉として生成されたものを僕は「死体」と表現しているのだとわかった。「外に」「作品として」という意味は、「その文章を自分が書いたには違いないが、それを読むとまるで他人が書いたかのように思える(自分で書いたとは思えない)」という現象を説明している。

喩とは。

吉本は、喩を

おそらく、喩は言語の表現にとって現在のところいちばん高度な撰択で、言語がその自己表出のはんいをどこまでもおしあげようとするところにあらわれる。〈価値〉としての言語のゆくてを見きわめたい欲求が、予見にまでたかめられるものとすれば、わたしたちは自己表出としての言語がこの方向にどこまでもすすむにちがいないといえるだけだ。[160]

と、「おそらく」としながらも「言語のいちばん高度な撰択」としている。

言語は故郷をもたない放浪者であるため、ひとつの言語とべつの言語とをむすびつける唯一の本体——つまり人間が、そのあいだに存在しさえすれば、その社会の中で社会とたたかい、矛盾している根拠から、どんな言語と言語のあいだでも自由に、しかしその人間の現実社会での存在の仕方にきめられて連合させることができる。喩はそんな言語の質があるからはじめて可能となるのだ。[150]
喩は言語をつかっておこなう意識の探索であり、たまたま遠方にあるように見える言語が闇の中から浮かんできたり、たまたま近くにあると思われた言語が遠方に訪問したりしながら、言語と言語の意識の中で連合させる根拠である現実の世界と、人間の幻想が生きている仕方が、いちばんぴったりと適合したとき、探索は目的に命中し、喩として成り立つようになる。[151]

この喩の説明は「言語が経験と意識のネットワーク(言語ネットワーク)」という喩でより容易に説明できるのではないか。

ぼくたちは言語をネットワークとして内に持っている。このネットワークはそれまでのその人の経験によって構成され、意識のネットワークも兼ねている。このネットワークは固定されたものではなく、常に変化している。喩は、別の言語と言語をネットワークとしてどう結びつけるかの問題である。遠くはなれていた言語と言語同士を一瞬でつなぎ合わせるとき「探索は目的に命中」している。

言語ネットワークという喩の優れた点は、ぼくたちはこの言語ネットワークそのものが動き、揺れることそのものを目的とした表現ができ、動き、揺れ自体を感じ取ることができるという点にある。
ちょっと足りないぐらいがちょうどいい[小林]
結局のところどうだったのか、イチから説明してください[大谷]

といった矛盾を孕んだ表現の「オモシロさ」は、ネットワークに大きな波紋を生むことにほかならない。誤字脱字、誤った文法などがもつ独特の衝撃もこれで説明がつく。
かゆい空[大谷]
という言語が表現された途端、「かゆい」と「空」というそれまでは遠く隔たっていた言語同士が無理やり接続され、それによってネットワークに動揺が走る。この並び自体は簡単には収まりどころを見つけられずネットワークをさまよう。しかし、現実にもし、この言葉の並びによって表現するのがぴったりな出来事に出会った時に、この並びはより強くネットワークに存在するようになる。

 新たな言葉を生み出す際には、そのネットワークのどこかに雲のように現れたものを「言葉」として抽出することでネットワークに位置づけられる。あるいは、なかなか位置づけられないことで、ネットワーク内をつるつると移動していく感覚もある。意味不明な一発ギャグの効用がそうだろう。

 ネットワークという言語は、あくまで喩にすぎず理論というほどの強度は持っていないが、現実に〈書く〉さいに僕はこのネットワークをたどっている感覚がある。さて、言語ネットワークという喩が言語にとってどこまでの射程を持ちうるのか。
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