【11】三浦つとむ『日本語はどういう言語か』第5回レジュメ

2015年11月20日 資料・発表:大谷隆

前回、小林氏による鋭い指摘とその後のゼミでの話から確認された、本書(のある部分)は「英語的に日本語を解説しようとしている」という批判的視野が開かれた。この視野から今回は本書への違和感を取り上げる。

第五章 日本語の文法構造——その三、語と文と文章との関係

■「零記号」は便利すぎやしないか。

どうしても承知しないので……。
この表現は、そのあとに「困った」とか「帰ってき来た」とか「なぐりつけた」とか言うべきところを省略しています。この省略は、表現を中止しても意思が通じるという、話し手と聞き手との条件において行われたもので、文法上許されている省略ではありません。思想的には一つの統一を持っていながら、表現としては統一を欠いたもので、いわゆるいいかけでしかなく、これだけをまとまった一つの文ということはできません。[236]

「文法上許されている省略では」ないことからの結論として、「表現としては統一を欠いたもの」、「これだけをまとまった一つの文ということはでき」ないと断定している。しかし「文法上許されていない」だけではないのか。三浦は、文が文法に従うことを、本来あるべき文の姿と見ている。これは、ひょっとすると英語などでは言いえるのかもしれないが、日本語ではそこまで言い切れるのか。

また、

山に登る。(a)
山に登るのは愉快だ。(b)
(略)
(a)は文であって、「登る」の下に零記号の肯定判断を伴っています。(b)の最初には(a)と同じ文字が使われていても、そこに零記号の肯定判断を伴わないし、〈形式名詞〉「の」で抽象的にとらえなおしてそこに〈係助詞〉の「は」が結びついています。[236]

ここでいう「零記号の肯定判断」とはなんだろうか。「山に登る。」のあとに何かの「判断」が省略されていると見るのはちょっと不自然ではないだろうか。

(「起立!」と叫んだ)この場合の話し手の立場は、現実の起立していない状態の認識の立場と、未来を想像した起立している状態の認識の立場とが、二重化しているわけです。こんな奇妙な立場を、単純な立場で取り上げる〈助動詞〉にすることはできません。零記号のままにする以外方法はありません。〈動詞〉の命令形は、この零記号がむすびつくときの語尾変化です。[195]

「零記号」によって説明をつけているが、「起立しろ!」の「しろ!」が零記号に相当している、ということだろう。「立つ!」の場合は、「立て!(立ちなさい!)」という命令形の語尾変化(あえて書けば「て!」「ちなさい!」)を零記号としてとらえ、その零記号の語尾が動詞の原形である「つ」に戻った、ということになるのだろうか。あるいは「立つことをしなさい!」の「ことをしなさい!」が零記号なのか。

それでいうよりも、本書に既にある「母親が子供に対して、子供の立場に立って「お母さんは」と自分のことを指して言うことで子供の追体験を容易にしている[139-140]、という説明をつかってこの場合も、命令された相手の立場に立って「立つ」ということを代わりに言うことで追体験を強制し、命令と同じ作用を起こさせている。」という解釈するほうがまだすっきりする。つまり「立つ!」は「(あなたが)立つ!」と、代名詞に関わる部分で説明したほうがいいのではないか。語尾変化という局所的な文法として処理しようとしたところに無理が出て、その無理を「零記号」という「何でもあり」のジョーカーに任せてしまっているように感じる。もし、零記号で説明するならば、この場合は代名詞の「あなたが」が零記号だと見たほうがいい。

しかしそもそもとして。
「零記号」は、省略という意味、本来あるべきものが無いという欠損を表すものとして便利に使われているが、「もともと無い」「単に無い」という本来的な「無」からすると、一面的な「無」の側面の利用にすぎない。「もともと無い」ものを「省略」することはできない。この辺りに何か三浦の論の根本的な「欠損」があるのではないか。三浦は「零題名」まで出してきた。この後「零本文」「零作品」と進むつもりなのだろうか。

これらから導かれるように、大谷の「文法」に対する見解を書くと、
そもそも言語のすべてを「文法」でとらえることに無理がある。言語はもともと法を持たず自由だが、部分的に法が適用できるにすぎない。文は、文法に従わなければならない存在というよりも、文は本来自由だが、部分的に法則性が見出しうるというだけで、この時法則性としての文法は、文を理解するための便利なツールの一つに過ぎない。もう少し踏み込むと、英語などは文法が比較的厳しく言語の基盤としてある(のかもしれない)が、日本語の場合は法がその存在の基盤として整備されているわけではなく、どのようにも変わり続ける日本語の現状を、そこから見いだせた法則性として後追いしているだけなのではないか。

このあとは、「文法」を「近代」にスライドさせた思いつきのメモ。
〈近代〉は西洋的な意識の有り様においてのみ基盤性を強く持つが、日本的には〈近代〉はある種の便利な法則性、傾向としてしか働けない(椹木野衣の「未完の近代」「悪い場所としての日本」)。日本の〈近代〉は、もともとどのようにも変わり続ける日本的意識が、西洋的意識を包み込みつつ、その部分として西洋的〈近代〉性を便利なツールとして持った。また、「日本古来の」というものが言い得るとすればそれは、「日本は昔から、外からくるものを何でも包み込んで、便利に不完全に利用できる(不完全にとどまりながら)」ということなのではないだろうか。
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