【11】三浦つとむ『日本語はどういう言語か』第4回レジュメ

2015/11/05 小林健司作成

はじめに


持論を展開する中で誤読している気がしてきたが、表現を中和して書くよりも、空振りを覚悟で思いきって振り切ることによって見えるものもあるのではないかという気持ちになったので、あえて大上段から力を込めて振り下ろしてみます。

◯日本語の時間感覚と相対性

過去現在未来は、属性ではなく、時間的存在である二者の間あるいは二つのあり方の間の相対的な関係を指す言葉にほかなりません。これは客観的な関係です。主観的なものではありません。[216]

時間の流れを日本語がどのように表現するのかについて、「時間的存在である二者の間あるいは二つのあり方の間の相対的な関係を指す」という三浦の説明は、言葉を扱う人間がどのような存在であるのかという問いにまで達する鋭い指摘だと言える。

 しかし、相対的な関係を「客観的」だと固定してしまったところに、三浦の限界があり、逆にわれわれにとっての次の展望が広がっている。相対的な関係の中に時間があるのなら、それは見る視点によって時間の捉え方は無限に存在するということであり、主観的な時間しか存在しないことになる。もし、相対的な時間を客観的に捉えることができる存在があるのならば、それは「神」のような視座を固定することが可能な存在に限られるのではないか。

運動を表現するにあたって、対象と話し手との関係をひっくりかえし、話し手の動きを対象の動きにうつしかえたかたちで表現する唱歌「汽車」の扱いかたを、舞台装置に応用すると第34図のようになります。観客が現実に見るのは、舞台の上の静止した汽車と、その背景として動いている「森や林や田や畑」です。観客は鑑賞にあたってこの運動関係を観念的にひっくりかえし、背景は動かないもの、汽車そのものが動いているものと意識します。(改行)過去から現在への対象の変化は、現実そのものの持つ動きです。これを、言語は、話し手自身の観念的な動きによって表現します。[217-8]

三浦が、唱歌「汽車」を舞台装置に応用して説明したこの箇所では、時間が相対的な関係を指すことを二つの主観を例に示されている。ここでは、話し手が静止して離れていく対象を見るときと、話し手が離れていくときに静止する対象を見るときに、まったく同じ認識が起こっている。三浦は「観念的な自己分裂をする」とこの現象を説明しているが、移り変わる景色を時間とするならば、時間(の中で話し手が見るもの)は、自分が動こうが、対象が動こうが、そのどちらもであろうが、舞台装置のように我々の前を通り過ぎていっているだけで、現実に近いのはむしろこの舞台装置の方ではないだろうか。

 はたしてこの舞台を見るときに、人は「この運動関係を観念的にひっくりかえ」すことによって理解しているのだろうか。むしろ、観客は舞台の汽車に乗り込んで、移り変わる景色を見ながら一緒に移動しているのではないだろうか。

◯「た」の作用

いま第35図の時点(b)に、現実の花の散っているあり方とそれをながめている話し手が存在するとしましょう。この両者の関係は、誰でも現在として扱います。ところが話し手は過去のある時点(a)で、この花が美しく咲いていたであろうことを想像できますが、この想像の世界をつくりだすとき、話し手の目の前にはその花の咲いているありさまがうかんで来、観念的に分裂して想像の世界の中にいる話し手は、その花に対してやはり現在とよばれる関係を持つことになるのです。[219]
三浦は「花が咲きました」というときに、「花が咲きまし」までを過去の時点に観念的に自己分裂した話し手が表現し、「た」で現実の時点にもどってそれが過去であることを示す、としている。同じように未来についての表現も「花がさきましょ」までを、未来における現在の関係を観念的な世界に設定して表現し、「う」を、現実の時点にもどって未来であることを示す、としている。

 ここでもやはり、相対的な時間関係全体を客観的に捉え直すことで、話し手という固定された時間軸が生まれ、理解を難しくしている。

 1 十年前に咲きました。
 2 毎年毎年咲きました。
 3 昨年咲きました。
 4 花が咲きました。

 これらは、いずれも「た」によって、花が咲いたことが既に起こった出来事であることを示している。1、2、3は、十年前、毎年、昨年、という過去の特定の時点を指定し、その時点で咲いたことを表している。しかし、4については、丁度花が目の前で咲いた時点にいるときにも表現可能なものだ。より現在性を持たせたければ「今、花が咲きました」としてもよい。

 過去のある時点を示す「た」がなぜ、今目前に起こっていることについても表現可能なのか。時間は刻々と移り変わっているので、一瞬だけでも過去のことであれば「た」は使うことができる、という説明が通るなら、「現在とはどこまでの時点を指すのか」という議論にずれ込んでいく。 

 英語の過去形が、一定時間以上の過去を指すときにしか使えないのとちがって、日本語の「た」は、ある動作が終了した直後から使うことができる。ここに存在する、話し手の過去に対する距離感の違いのことを、時間の相対性と呼ぶことができる。

 先の1、2、3の例文も並べて説明すれば、「た」という表現には、まさに今完了した動作を示す作用があり、それが十年前という時点でも、毎年という複数の過去の時点でも、今現在の時点でも、その作用は変わらない。観念的な分裂をして戻ってくる、というには余りにも短い距離、短い時間に、「た」という言葉は過去と現在を結びつけている。
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