【14】矢野智司『贈与と交換の教育学』第2回レジュメ

Ⅰ章—贈与する先生と受け取る弟子


【第1章—贈与する先生の誕生とその死】

◯戦後教育へも問題意識

「戦後教育学の発想はどこまでいっても世俗的価値(有用性)を超えることはない」[30] 
「その結果、戦後教育は人間を水平化し」てしまった。「また、戦後教育は結果として『個人』の形成に失敗し、集団主義に同化する大衆を産出してきた。共同体の内部での人間関係こそが、すべての意味と価値の発生の場であると教えることによって、子どもたちに帰属集団から離れることに恐れをもたらし、いじめをはじめさまざまな教育の『病理』を生み出すことになった。日本でいじめによって自殺が起きるのは、戦後の教育空間に生成の体験が極度に衰弱し、世俗的な人間関係しかないからである。」[31]

◯教育の起源

「教育がはじまる絶対的な始原ではなく、また人類学的事実や歴史的事実としての起源でもない、論理と抽象によって初めて見出すことのできる、反復されるはじまりとしての教育の起源について、思考実験を試みたい。」[31]=贈与の一撃?

「私は、教育の起源を、共同体の外部に離脱した世俗的個人が、共同体の内部に戻るときに、共同体の構成員に出会うことから生じる教えるー学ぶ関係の成立にあると考える。」[34]

◯「最初の先生」

「教えるー学ぶとは、言語ゲームを共有していない他者との出会いのなかからはじまる。そうするとこの教えるー学ぶとは、共同体の内部から生じたのではない。したがって、教えるー学ぶという非対称の関係を生み出す先生は、共同体の外部から来たと考えるしかない」[34]

・個人の起源

デュモン「(共同体内部で生活する)市民から個人が誕生したのではなく、世俗的世界の外部に離脱した人が、超越的存在と交わることによって、個人が誕生した」[35]=世俗外個人(individual-ite hors du monde)

→ポリスの没落から生まれた賢者の思想が、プロテスタンティズムの影響のもとで、世俗外個人の価値が世俗世界においても体現されていき、世俗外個人は世俗世界に生きる「世俗内個人」へと変換していった。=個人主義の成立


・溶解体験

作田「個人となるためには、世俗的秩序の外部に出て、超越的存在と交わるという溶解体験を必要とする」[37]→その後、共同体に期間したものが「最初の先生」

=ソクラテス
=「個人名であるとともに、教えるー学ぶ関係を生みだすすべての世俗外個人を指す一般名称」
→「言語ゲーム自体を疑い問いなおす」[41]
=問答法


【第2章—先生とでしの物語としての『こころ』】


2−1

〈問題提起〉

「私たちは、なぜある特定の人物を先生として尊敬したり畏敬の念を抱いたりするのだろうか。また『先生』と敬意をもって呼んだ同じ人物にたいして、なぜ後になって羨望や嫉妬や対抗意識といった感情を抱いたり、あるいは憎悪の感情さえ抱くようになったりするのだろうか。このような先生とは何者か、そして弟子とは何者なのだろうか。」[51]
→夏目漱石『こころ』(1914)をテクストとして考察する。

「この『先生』は『私』にとって人生の師でありモデルである。しかし、この『先生』は、『私』の『先生』となることによって臨界点を超えてしまい、純粋贈与者としての『最初の先生』へと転回してしまう。どのようにして「最初の先生」は生まれるのか、そして彼は何をでしに贈与するのか、『こころ』という小説は、現代の『最初の先生』の典型的な姿のひとつを描き出している」[51−52]

2−2

ジラールの欲望模倣論

「欲望は自分自身の奥底から自然にわき起こるものではない。欲望が自己の内部に根ざしていると考えるのは、『自律性』というロマンティークな誤った信念に由来している。(…)ヨクボウハ、自分がモデルとする他者(…)の欲望を、模倣者が模倣するところから生まれる。」[53]
「主体が媒体の欲望をコピーするだけでなく、媒体が主体の欲望をコピーする媒介関係を『二重媒介』と呼ぶ」[53]
「近代社会は、人間の本来的な平等性を根拠とする社会であるから、媒体と主体との差異は絶対的な差異ではなく、媒体への主体による崇拝は、容易にルサンチマンに転化する」[53]
「先生と弟子の関係も、(…)欲望模倣関係のひとつとみなすことができる」[53]
「Kと『先生』との関係、『先生』と『私』との関係をよく説明してくれるようにみえる」[54]

2−3

「『先生』は、この欲望模倣の犠牲者であるがゆえに、欲望模倣の深い認識者である。尊敬し近づこうとする青年の『私』に自分の分身をみて、『先生』はいつか君も私にルサンチマンを抱くことになるだろうと予言する。」[57]

「『かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないせう』」[57]

「『先生』と呼ばれることによって、『先生』は青年の人生の導き手となるのだるのだが、そのことによって、危ういバランスは崩れはじめ、『先生』は純粋な人生の導き手であることを強いられることになる。『先生』は、模倣者の『私』を得ることによって、自分の生きてきた人生についての反省を先鋭化させられるのである。」[61]

2−4「先生」はなぜ死ぬことになるのか

「世間への面目や羞恥のような前近代的な共同体の負債感に基づく道徳原理に生きる乃木が、殉死することによって聖なる他者への忠節を示したとするならば、『先生』もまた『個人』の倫理で生き抜く苛烈なほどの『真面目』さでもって、『私』に自分の人生を贈与する必要があった」[62]

「不意の『私』の出現こそが、それまで人知れず密やかに妻と暮らしてきた『先生』の生活に、歪みをもたらした(…)『私』の人生にたいする(…)『真面目』によって、『先生』と『私』との間の悪循環が生まれて、そして昂進していったのだ」[63]

—あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臓を立ち割つて、温かく流れる血潮を啜らうとしたからです。(・・・)私は今自分で自分の心臓を破って、其血をあなたの顔に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です」[64]

「最後の言葉は、この物語の主題が『死と再生』であることを示している。(…)これは『先生』から『私』に純粋に贈与された供犠なのである。(…)ではなぜ『先生』は『私』に差しだすのか。それは『私』の真面目さによってである。(…)『先生』は告白し自死することによって自己を贈与する『最初の先生』となる。それは文字通り命がけの跳躍である。(…)『先生』の跳躍は、欲望模倣に囚われた在り方からの解放を意味する。『先生』は過去の誤りのため自責の念に耐えかねて死ぬのではなく、未来に向けての贈与として死ぬのだ」

2−5

「通常、贈与は人間関係のバランスを揺るがし、贈与者への返礼の義務を生じさせる。しかし、贈与されたものが愛であるとき、贈与を受けた者を負債で苦しめはしない。『先生』が『私』に与えたものとは、自らの罪にたいする懺悔に満ちた遺書という物語だけでなく、その遺書を『私』に託し自ら供犠として自死したという出来事である。それは、世間の道徳とは異なるロマネスクな個人の倫理に基づいている。そのため、『私』に喪の作業を強制しっはしないはずであった。それにもかかわらず、純粋贈与という不可能性が『私』をこの物語の書き手への展開させるのである。」[66]

2−6

「語ることを禁じられた秘密をただ一人受け継ぐことで、人は他者のまなざしによっては決して見通すことのできない内面を所有することになる。さらに、秘密の受け渡しが死の贈与としてなされることで、この『私』は聖なる出来事を体験する。それは共同体のいかなる『物語』にも回収されることのない、個人が誕生することである。そして、今度はこの秘密が『私』から供犠の出来事ともに『私』たち読者へと贈与されることになる」[68]

「二重媒介による欲望模倣の奴隷となることなく『個人』として生きていく可能性が、『先生』の贈与によってわずかながらでも指し示されている」[68]

【第3章—「先生」としての漱石】


「師の死が、弟子にとって解放とされたのはなぜだろうか」[70] 
「漱石と弟子の師弟関係が、現代における『最初の先生』とその弟子との関係の可能性と病理とを、同時に示している」[70]

【第4章 贈与・死・エロスにおける先生と弟子】


「田辺元は、師弟関係を「愛によって結ばれた実存」としして「実存協同」と呼んだが、このような贈与論に立つ師弟関係としての共同性は、従来の共同性とは異なるエロス的な共同体形成の可能性を示している。例えば、ブランショは、『明かしえぬ共同体』において、二人の間で恍惚が違いに交感する体験をコミュニカシオンと呼び、このコミュニカシオンにおいて生起する共同体を、『恋人たちの共同体』と呼んでいる。その意味でいえば、贈与する先生とその贈与を受け取る弟子とが生み出す関係も、『恋人たちの共同体』のひとつということができる。このような挙動体は、有用性をもとにした交換ではなく、贈与の瞬間において生起する他者との交換において成立する共同体である。」[91] 
「バタイユによれば、エロティシズムとは、『死におけるまで生を称えること』であり、『本質的にエロティシズムの領域は暴力の領域であり、侵犯の領域である』」[91] 
「教育愛は、教師の生徒への機能的な役割としての『危険』のない『愛の物語』に書き換えられた」[92]
「愛の贈与者としての最初の先生は、小さな振幅で生成と発達を生きようとする者の経済的な均衡を大胆に破壊し、生成と発達にダイナミックな振幅をもたらし、より高く人間であること(人間化)を生みだすとともに、同時にできるかぎり遠くへ動物であること(脱人間化)をも促す」[92]
「贈与者の死によって伝達されるのは、内容ではなくこの死の体験そのものである。言い換えれば、共同体の外部の先生とは、死=エロス=非—知の体験に生まれ、己の死=エロス=非—知の体験を贈与とすることによって、弟子に死=エロス=非—知の体験を伝える者のことである。このように贈与としての教育は、死によって駆動されている。」[94]





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