【12】吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2第2回レジュメ

2015年9月13日 資料・発表:大谷隆

第2章 言語の属性

1 意味、2 価値

「意味がわからない」ことは「意味が無い」のではなく、わからないということも含め言語の意味を捉えなければならないと吉本は指摘する。
言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語の全体の関係だ[89]
「指示表出〈から〉みられた」のであって、「指示表出(のみ)をみた」わけではない。
だから言語の意味をかんがえることは、指示性としての言語の客観的な関係をたどることにちがいないのだが、このように指示表出の関係をたどりながら、必然的に自己表出も含めた言語全体の関係をたどっていることになる。[90]
同様に、言語の価値を、
意識の自己表出からみられた言語の全体の関係を価値とよぶ[89]
というとき、「自己表出(のみ)をみた」わけでなく、
指示表出と自己表出を構造とする言語の全体を、自己表出によって意識からしぼりだされたものとしてみるところに、言語の価値は横たわっている[101]
これを言語の発生の段階に見い出せば、
<海>という言葉を意識の自己表出によってうちあげられた頂きで、海の象徴的な像を示すものとして見るとき、価値として〈海〉という言葉をみている。
逆に、〈海〉という言葉を他にたいする訴え、対象の指示として、いいかえれば、意識の指示表出の果てに、海の像をしめすものとしてみるとき、〈海〉という言葉の意味としてみている。[101]
「意味がわからない」の例の3番目にあげられているものは、先日の三浦ゼミのさいの、うみちゃんの「単語がならんでいるけれど、そのつながりがわからないようなものは、言語なのか?」という問いに対応してる鋭い指摘で、三浦の言語論では説明しきれず、吉本のこの言語の意味において了解される。
「僕は・・・リラックスしている・・・のは、リラックスしている」(ミニカン記録、話し手:大谷、聞き手:青木)
この同意反復は、指示表出としてのみ見た場合、あとの部分は「意味が無い(うすい)」が、自己表出としてもみた場合、言語の意味をなし、言語としての価値がある。
「結局何があったのか、一から話してください」
この矛盾した言い方も、指示表出をたどっても、「結局」と「一から」で無化されるように思えるが、自己表出はつよく現れている。


2015年9月13日山根澪

第Ⅱ章 言語の属性

1 意味

吉本は意味がわからない場合として、「指示表出が、何らかのかたちで死滅したり、歪められたり、また覆われたりしていること」を上げたが
これらの実例で、言語の表現は依然としてある意味をしめしているようにみえるのはなぜか。このもんだいをはっきりさせなければ、言語の美にちかづくことはできない。
そして、必要なのは、現在のどんな文学的な表現の先端をもつつむことができる意味概念だ。意味がわからないとみえるものも意味としてとりだされなければならない。[84]
全体的に、そうではあるけれど、ここのといのたてかたには驚いた。意味がわからいと言っているのに、「意味をしめしているようにみえるのはなぜか」。

まず、三浦つとむの提出した意味に対して、
三浦つとむが言語の意味を包括的にしめしていないとおもわれるのは、意味概念をつくるばあい言語を指示表出性としてみているからだとおもえる。(略)「ば」とか、「に」とか「は」とかのような他の言語との関係のなかでしか意味をもちえない言語、(略)「春日の野べ」とか「霞」とかいうコトバのように、それ自体が対象を象徴的に指示している言語とを、主体的表現と客観的表現とにふりわけるところにおそらく意味についての矛盾がおこりうる理由がある。[89]

吉本自身は、
言語の本質は、どのようなものであれ、自己表出と指示表出とをふくむものと考えればこれらの矛盾をなくすことができる。言語の意味とはなにか、をかんがえるばあい、頼りになるのは言語の本質だけだ。そして、わたしたちはつぎのように言語の意味を定義する、言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語の全体の関係だ。[89]
作者主体の視線と関心の移しかたの動きもふくめて、この一首の意味とよぶべきであることがわかる。だから言語の意味を考えることは、指示性としての言語の客観的な関係をたどることにちがいないのだが、このように指示表出の関係をたどりながら、必然的に自己表出もふくめた、言語全体の関係をたどっていることになる。[90]

具体的には
B 辰男は物をも云はず、突如に起上つた。(正宗白鳥「入江のほとり」)[91]
わたしたちは、この文章からあきらかに一人の人物が無言のまま、つと立ちあがるイメージを無意識のうちに思いうかべ、そのイメージによって各語の指示性の関係づけをたすけられている。[92]
意味のうねりや、指示性の関係としてはたどれないのに、なお、なにかを意味しているような表現にぶつかるとき、言語の意味がたんに指示性の関係だけできまらず、自己表出性によって言語の関係にまで綜合されているのを、はじめて了解するのだ。[92]

2 価値

価値へのとい。
わたしは、ここで言語の価値を問わねばならいのだが、つまりは、たくさんの俗流の山をかきわけて文学にはどんな意味があるのか、どんな価値があるのかというもんだいに里程標をたて、もはや疑う余地のない仕方で目的に近づきたいと考えるからだ。[95]

そして、価値とは。
指示表出と自己表出を構造とする言語の全体を、自己表出によって意識からしぼりだされたものとしてみるところに、言語の価値はよこたわっている。[101]
意識の自己表出からみられた言語の全体の関係を価値とよぶ。[102]

しかし、多くの言語学者はこの定義に異論をもつかもしれない。
ギローならば、表現的価値と印象的価値とにわけ、文体的価値とよぶかもしれないし、これをさらにこまかくわけて、無意識的な価値も、社会、集団的な価値も、倫理的な価値もくわえるべきだというにちがいない。また、通俗<マルクス主義>文学者だったら、社会的な伝達価値も、革命的教育価値も、倫理的な価値も考えるべきだと主張するかもしれない、しかし、そういったとらえかたは、どんなに精緻をつくしても、ついに一個の俗論にしかすぎない、あたかも、商品の価値は、需要、供給の関係からも、人間の心理的な関係からも、希少性からもきまるし、そのほか数え上げれば無数の原因をさがしだすことができる……といった迷路にさまようのとおなじように。[102]
この作品は、「反戦」だとか、「反原発」だとかそういった言い方につまらなさを感じてしまう理由がここに記されているように思った。確かに、反戦に結びつくような何か含むのかもしれないが、自己表出からみたときに「反戦」「反原発」そういった指示表出性の高い言葉で切り取ってしまっては作品を読んだとは言い難いように思う。

3 文字・像

文字の成立によってほんとうの意味で、表出は意識の表出と表現に分離する。[110]
言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめてほんとの意味でうまれたのだ。文字にかかれることで言語の表出は対象になった自己像が、じぶんの内ばかりではなく外にじぶんと対話をはじめる二重のことができるようになる。[110]


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