【12】吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1・2第1回レジュメ

2015年9月13日 資料・発表:小林健司

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2015年9月13日 資料・発表:大谷隆

本書は、「表現された言語は指示表出と自己表出の織物だ」[7]という吉本独自の言語論について書かれている。特に「自己表出」は独特の深みを持つ概念で、吉本の発見ともいうべきもの。しかし、この自己表出という大きな膨らみをもった発想すべてを簡単に言い表すのは困難で、この2冊のすべてがそれにあてられているといってもいい。

■第1章 言語の本質

1発生の機構

吉本は、言語発生の機構についての言語学者の説明は、大きく分けると2つ。
人間だけが言語を持つという考え方は、人間のある本質力と言語とのあいだにひとつの関係があるという見解を暗示している。人間以外の動物も言語をもっているが、発達した言語をもつのは人間だけだという考え方は人間が人間に近似した動物から、進化した集団と労働の様式をもつようになったとき、社会的交通の手段として言語も進化した様式を持つようになったのだという考えを暗示している。[28]
前者の例としてS・K・ランガーを、後者の例としてスターリンを出し、
言語の発生について(略)言語の本質からその実用性(後者)と自発的な表出(前者)のいずれかを切りとり、その断面をひろげて、ついに対照的な彼岸にまで達してしまった。[37]
このあいだに「X氏」の数だけニュアンスを持った様々な理論が分布している。[39]
にすぎないとして切り捨てる。そして、吉本は、

たとえば、狩猟人が、ある日初めて海岸に迷い出て、ひろびろと青い海を見たとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が資格にはんえいしたときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずだ。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視覚にうつったとき意識はあるさわりをおぼえ〈う〉なら〈う〉という有節音を発するだろう。このとき〈う〉という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反映的な指示音声だが、この指示音声のなかに意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲得しているとすれば〈海(う)〉という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することとなる。このとき、〈海(う)〉という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。
こういう言語としての最小条件をもったとき、有節音はそれを発した者にとって、じぶんをふくみながら自分に対する音声になる。またそのことによって他に対する音声になる。反対に、他のためにあることでじぶんにたいする音声になり、それは自分自身をはらむといってよい。[38]
と言語が発生する機構を明らかにし、同時に「交通の手段、生活のための語りや記号」と「言語の芸術」の発生機構も説明する。ここで象徴的(記号的)指示が三浦のいう言語の「普遍性」でもある。

2 進化の特性

前述の発生の3つの段階を分析的に示すと、

(1)無言語原始人の音声段階で、音声は現実界から特定の対象を意識することができず、ばくぜんと反射的に労働、危機、快感、恐怖、呼応などの場面で叫び声を発する。 
(2)音声がしだいに意識の自己表出として発せられるようになり、それとともに現実界に起こる特定の対象に対して働きかけをその場で指示するとともに、指示されたものの象徴としての機能を持つようになる段階がくる。(第1図) 
(3)音声はついに目の前の対象をみていなくても、意識として自発的に指示表出ができるような段階。(第2図)[46-47]

となる。この後、
言語は社会の発展とともに自己表出と支持表出をゆるやかにつよくし、それと一緒に現実の対象の類概念のはんいはしだいに広がってゆく。[55]
と進化する。

3 音韻・韻律・品詞

韻律については、時枝の「場面」、三浦の「感性的な表現」をともに、
言語の韻律が意味のような機能を直接関わりのない特性だと指摘している。[59]
が、
表出された言語のほかに、韻律をかんがえることはできないし、すでに表出された言語を描かれた円とビイドロ石、器と内容、場面と言語にわけることはできない[59]
と否定する。吉本は原始人が祭りで手拍子をうち、打楽器を鳴らし叫び声の拍子を打つ場面を想定し、
音声反応が有節化されたところで、自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば音韻(略)、有節音声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言葉の韻律の概念をみちびけるような気がする。[59]
とする。また、品詞に関しても、時枝、三浦がそれぞれ、詞・辞、客体的表現・主体的表現と二分する概念で示しているところを、
二分概念としてあるというより、傾向性やアクセントとしてあると考えたほうがいいことになる。[71](第4図)
と修正している。

吉本の言語論は、時枝、三浦を足がかりにし、より言語の「美」、文学の有り様に迫っていく。時枝や三浦が、言語を平たくとらえた言語学という範疇にあるのに対して、吉本は自己表出に重きをおき言語の持つ奥行きをとらえたタイトル通りの言語・芸術論である。吉本の文章は(網野善彦と似ていて)、内容的に難しいが、厳密な言葉遣いなので混乱はなく、同時に何かが湧き出るようなうねりを感じさせ「読めた」と思えた瞬間に強い快感を伴う。日本語で書かれた書物として稀有である。



2015年9月13日山根澪

文庫版まえがき

このようにしてすべての言語は指示表出性と自己表出性を基軸に分類することができる。言葉を文法的にではなく、美的に分類するにはわたしの考え方のほうが適しているとおもう。言いかえれば文学作品などを読むにはこの方がいいとおもっている。[10]
言葉を分類する、と聞いたときに「美的に分類する」とは全く考えたことがなかった。

序では、吉本隆明が「なぜ、いかにそのようにしたかというモチーフ」を述べている。
わたしは数年のあいだやってきたプロレタリア文学運動と論理を批判的にする仕事に見切りをつけていた。(略)もう自分の手で文学の理論、とりわけ表現の理論をつくりだすほかに道はないと思った。[16]

そして、吉本は
まず<言語>とはなにか、というはじめての問題にぶつかっていた。(略)文学が言語でつくられる以上は、この像からはじまり、具体的な作品にいたるすべての問題は解けるはずだ。[17]

当時の状況として、乱立していた「個体の論理」。
じっさいは対立などという高級なことをしているのではない。文学者たちは自己主
張しているには違いないが、ひとつの本質が他の本質と相容れずに角逐しているの
ではなく、ある現象が他の現象とときにはむき出しの感情をまじえてあらそってい
るにすぎない。[21]

個体の理論のそれぞれの心情を退けるわけにはいかないが、
人が頭のなかになにをえがこうと、たれにもおしとどめることはできないという意味からであり、どんな普遍性としてでもない。こういう個体の理論はどんな巨匠の体験をもってしても、どんな政治的な強制力をもってしても、文学の理論として一般化することがゆるされないだけである。[21]

そして吉本が選ぶよりほかなかった立場が普遍的に語るということ。
わたしは、文学は言語でつくった芸術だという、それだけではたれも不服をとなえることができない地点から出発し、現在まで流布されてきた文学の理論を、体験や欲求の意味しかもたないものとして疑問符のなかにたたきこむことにした。(略)もんだいは文学が言語の芸術だという前提から、現在提出されているもんだいを再提出し、論じられている課題を具体的に語り、さてどんなおつりがあるかという点にある。[22]

第1章 言語の本質

1発生の機構

この人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件と、その条件にうながされて、自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言語の自己表出(Selbstaudruckung)として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに幻想の可能性としてかんがえられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱していく水準をきめている。[36]
自己表出というものがなにか、つかめる感じがあったので抜き出した。「この人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件」を現在に重ねて読んでいいのだろうかと思いながらも、「現実の条件」から「言語の表出」まで距たりがあると言われることに違和感がない。

言語は動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、それがはったつして自己表出として指示記号をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった。[38]
自分たちが言語を新たにうむ可能性をこの文章を読むと感じる。

これ(労働の発達などのよる社会の複雑化)は人類にある意識的なしこりをあたえ、このしこりが濃度をもつようになると、やがて共通の意識符牒を抽出するようになる。そして有節音が自己表出(Selbstaudruckung)されることになる。人間の意識の自己表出は、そのまま自己意識への反作用であり、それはまた他の人間との人間的意識の関係づけになる。[37]
言語が本質としてはらたくかぎり即自も対他も対自もふくんでいる。[39]
吉本隆明以前の見解は実用的な表出(労働や交通の道具)または自発的な表出(遊戯や祭式など)のいずれかをきりとり、対立さえ起こっていた。これを吉本はもんだいはそこではなくどちちらの場合でも、どちらも含むと言う。

2 進化の特徴

有節音声が自己表出として発せられるようになったとき、言い換えれば言語としての条件をもつようになったとき、言語は現実の対象と一義的(eindeutig)な関係を持たなくなった。(略)自己表出性をもつことによって有節音声はべつの特徴をも手に入れた。海を眼のまえにおいて<海の原>という有節音声を発しても、また住居の洞穴にいなが<海の原>という有節音声を発しても、おなじように、現実にいくつもある海を類概念として包括することができることだった。[49]
有節音声は自己表出されたときに、現実にある対象との一義的な結びつきをはなれ、言語としての条件を全部備えた。[50]
例えば固有名詞でさえも、人の名前でされも、「現実にある対象との一義的な結びつきをはなれ」るのかと考えて呆然とした。例えば、大阪や、まるネコ堂や、山根澪も言語として対象と一義的な関係をもたない。言われてみればそうだとすでに思い始めているけれど、一義的な関係を持たないことが意識にのぼらないほどにその言葉と思い起こされるものの関係が確固としたものとして自分のなかにあることが意識させられた。


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