【11】『はてしない物語』レポート。喩の逆作用。

大谷隆 
ファンタージエンの地理の特殊な点について説明しておく必要があるだろう。ファンタージエンでは、陸や海、山や河が人間世界でのように固定した場所にあるのではない。だからたとえば、ファンタージエンの地図を作ることはまったく不可能なことだ。(略)この世界では計ることのできる外的な距離というものはなく、したがって、「近い」とか「遠い」とかいう言葉も別の意味を持っている。それらはすべて、それぞれに定められた道を歩んできたそのものの心の状態と意志しだいなのだ。ファンタージエンには限りがないのだから、どこでもその中心になりうる。[219]

こんな記述が出てくると、読んでいる者はちょっとびっくりして、一体どうなってるんだ?と混乱する。距離って何だ?方向って何だ?

しかし、ここでいうような〈距離〉は、僕達が普段から慣れ親しんでいるものである。
言語とは何かを問うとき、わたしたちは言語学をふまえたうえで、はるかにとおくまで言語の本質をたどってゆきたいという願いをこめている。(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)
というような表現はよくあるし、この「とおく」は確かな像を結ぶ。人間関係を表すときにも〈距離〉を使うし、物事の考え方に〈方向〉をあてることもある。

他にも、アトレーユの愛馬は憂いの沼で絶望に陥り死に至り、女魔術師サイーデの操る中身がからっぽの黒甲冑は操るものの意志の力で動き、霧の海を渡るイスカールの船は思いの力を完全に一致することで推進力が生まれる。こういったことは、すべて僕達が喩として慣れ親しんだものである。エンデは、文学や日常言語において使われる喩を物語内世界の科学法則に逆作用させることで、豊かで魅力的な物語空間を作り上げている。

エンデが本書を通じて、本書そのものを使って、最も大きく喩の逆作用を発揮させている対象は〈自分の物語〉である。〈自分の物語〉を描くということに伴う孤独、絶望、勇気、友、愛などを文字通りの〈物語〉として描き出している。読者は、アトレーユとバスチアンという二人の少年の物語を読むことで、喩としての〈自分の物語〉を意識する。

ここで注意しなければならないのが、〈自分の物語〉という言葉から直接的に連想される「人生」「ライフワーク」といったものが前提としている時間の取り扱いだ。

本書で大きな物語を描き上げたバスチアンは10歳か11歳だし、アトレーユも大人になる直前の少年である。アトレーユの大いなる探索は、数週間といったところで、バスチアンに至っては数日の出来事である(ファンタージエン内ではもっと長いが)。90歳の老人が自分の人生を振り返って物語を語っているわけではない。

古本屋のコレアンダー氏が、ファンタージエンから帰ってきたバスチアンに、
新しい名前をさしあげることができれば、きみはまた幼ごころの君にお会いすることができる。何度でも。そしてそれは、そのつど、はじめてで、しかも一度きりのことなのだよ。[588]
と話しているように、〈自分の物語〉は、いつでも、何度でも描くことができ、それは、その都度、初めてで、一度きりのことなのだ。そして、その物語を描くのに必要な時間は数年か数日か、あるいは数時間か、あるいは一瞬かもしれない。

「瞬間は永遠です」というモンデンキントの言葉を今、思い出す。
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