【10】ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』第4回レジュメ

配布資料(2015/10/10 小林健司 作成)

「終わらない物語」から「はてしない物語」へ


フッフール:(命の水の声を聞いて)「ファンタージエンではじめた物語を、みんな終わりにしてきたか、とたずねていますよ。」「ファンタージエンにもどって、一切に結末をつけてこなければだめだって。」 
バスチアン:「だけど、数えきれないほどたくさんの物語なんです。」「それに、その一つ一つからまた新しい物語ができてくるし。そんなことをひきうけてくれるものはいるはずがありません。」 
アトレーユ:「いるよ。」「ぼくだ、ぼくがする」 [574-575よりセリフのみ抜粋] 
「最初からまたはなすということは、終わりなき終わりじゃ。われらははてることのないくりかえしの環にはまることになる。そこから逃れるすべはない。」[263]

前半の終わりにでてきた、永遠に同じことを繰り返す「終わりのない物語」は、後半の終わりには、無限に新しい物語を生み出し続ける「はてしない物語」へと形を変えた結末を迎える。ドイツ語の「DIE UNENDLICHE(無限の) GESCHICHTE(歴史・物語)」はこれに近く、英語の「NEVER ENDING STORY」はむしろ、山の古老が恐れた「終わりなき終わり」のニュアンスに近い。

アトレーユとフッフール

黒甲冑を相手に、どうしてアトレーユとその軍勢がエルフェンバイン塔の征服に成功したかが、それで説明がつくかもしれない。だが、もっと真実だと思われる理由がもう一つあった。それは、アトレーユは自分のためではなく、友のために闘ったのだということだ。友を打ち負かそうとしたのは、その友を救うためだったのだ。[489]
「ファンタージエン人たちは、愛することができないの?—ぼくみたいに。」(略・改行)「命の水を飲むことが許されたファンタージエンの生きものが、わずかだけど、いるということよ。」(略)[544]
「そうだな。」ぼそりといった。「きみは幸せだよ。ファンタージエンに友だちがいるんだから。みんながみんなそうってことじゃないんだよ。」[586]

物語が「はてしない物語」になるために、アトレーユとフッフールは命の水を飲む必要があった。それはバスチアンが最初に、モンデンキントの名を呼ぶことを拒否した時に決まった。その時点で、アトレーユとフッフールは完全に自分たちの物語を終えることになる。そしてそのおかげで3人は友だちになった。

迷いの道であり真の意思に通じる道


バスチアンは、戦々恐々とされる存在になりたかった。みながこわがる存在!みなに怖れられ、用心される存在でありたかった—もちろん、フッフールとアトレーユにも。[418]

「戦々恐々とされる存在になりたい」という望みは、アトレーユとフッフールとの関わりではなくサイーデによって叶えられることになった。グラオーグラマーンはアウリンに刻まれた言葉の意味について「あなたさまが真に欲するべきことをすべきだということです。あなたさまの真の意思を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」(略)「この道をゆくには、この上ない誠実さと最新の注意がなければならないのです。この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのですから。」[317-8]と厳しく告げていた。バスチアンが「怖れられ、用心される存在でありたい」と望んだのは、アトレーユとフッフールに認めてもらいたいという望みからきており、それは「真の意思」から遠いこの望みは迷いの道だった。しかし同時に「そこ(生命の水)へ通じる道なら、どれも、結局は正しい道だったのよ。」[540]という言葉通り、真の意思に通じる道でもあった。

サイーデの死


賢いということは、よろこびも悩みも、不安も同情も、名誉欲も侮辱も、すべてを超越していることだ。賢いとはあらゆるものごとの上に立ち、人をも物をも憎んだり愛したりすることなく、また他人の拒絶も好意もまったく平静に受けとることを意味していた。[454]
「権力家」としてあらゆる力を手に入れつづけたバスチアンは、この望みを叶えることで「だれの手も届かない存在、だれ一人なんの手出しもできない存在」[454]になる。それは「バスチアンが超然と、神秘にみちて君臨し、すべてのものの運命を一手ににぎって永遠に動かしつづける」[479]世界へと続いている。その世界で唯一バスチアンの意思に反することができるのは、生命の水を飲み愛することができるアトレーユとフッフールだけだった。何もかも思い通りになる世界をつくる、権力の象徴であるサイーデは、自らの操る黒甲冑たちに立ち向かって死んだ。バスチアンは、ここから自分以外の何かになる道ではなく、自分自身になる道への旅を始める。

確率論と物語


それを百年、千年、万年とつづけてりゃ、偶然、詩ができるってこともありうるわけだろ。さらにだな、永久につづけてりゃ、そもそも可能なかぎりのあらゆる詩、あらゆる物語ができるってわけだ。[506]

そんなことは起こるはずがない。だれかによって書かれた物語や詩は確率でできているのではなく、意思でできている。たとえ同じ言葉の配列が生まれたとしても、そこに書き手の自己表出がなければ、それはただの記号だ。だだからこそ、モンデンキントには「望み」が必要だった。元帝王の都については、最初に読んだときには出来事の一つでしかなかったが、何度も読むうちにモンデンキントが知っていながら人の子をファンタージエンに呼び込むことに悪意を推測するようになった。さらに何度も読むうちに、何ごとをも区別せず等しく扱う存在だからこそ、バスチアンがどうなっても、ただ自分の存在を全うするだけなのだと思うようになってきた。「モモ」のマイスターホラは、自ら灰色の男たちが時間を奪うことを阻止したり、取り戻すことはせず、人間の「自由」を一切侵さなかった。「幼ごころの君」もまた、人の「自由」には触れることができない。

アウリンと幼ごころの君と望みと記憶


「ファンタージエンはあなたの望みによって新しく生まれるのです、バスチアン。その望みを実現させるのはわたくしですけれど。」[273] 
「自分を帝王にしちまうと、そいつの望みでアウリンは消え失せるんだ。わかりきったことじゃないか—ま、いってみりゃ—幼ごころの君から、その権力を奪うために、当の幼ごころの君の権威を使うわけにはいかないだろう。」[504] 
「よい望みばかりではなく、わるい望みもありましたが、女王幼ごころの君はぜんぜん区別なさいませんでした。幼ごころの君は何もかも等しくお認めになり、女王さまの国ではみんな同じように大切なのです。そして、とうとうエルフェンバイン塔が崩れおちることになったときでさえ、それを防ごうとはなさいませんでした。」[530] 
(ファンタージエンの境について)「あるのよ。でもそれは、外にあるのではなくて、内にあるの。幼ごころの君が、すべてのお力をそこから受けておいでになって、しかも、自分はそこへいらっしゃれないところなのよ。」[541] 
「ご自身をはずすわけにはいかないから、おひかりの中にお入りになることはできない。」[571]

幼ごころの君はバスチアンの望みを全て分け隔てなく叶える。ただし、叶えるのは幼ごころの君だから、バスチアン自身が幼ごころの君になるという望みは叶えることができない。また、幼ごころの君の力のおよばないアウリンの中に湧く生命の水を飲んだ二人に言うことを聞かせることもできない。生命の水とは、「人間種族」の心的な力の源で、それは「愛」とか「仁」とかいうもので、望みを叶えることと記憶がなくなることは同時に起こるが、その二つはモンデンキントの意思とは関係ないことで、ただそのように起こることである。
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