【10】ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』第2回レジュメ

2015年10月10日作成 山根澪

バスチアンの心の動き(続き)

「もし、何か、きみたちのところへゆく道があるんなら、教えてくれよな。ぼく、ゆくよ、必ずゆく、アトレーユ!ほんとうだとも。」[159]
家に帰ろうか?-いや、それはできない。死ぬほうがましだ![186]
こうして、今やこの上なく変わった、そしておそらく危険な冒険に引き返すことのできない一歩をふみ入れたのだということを、バスチアンはこのとき思ってもみなかった。(略)バスチアンはふるえる指で読みさしの行をさがし、先を続けた。[228]
「よし、やってみよう!」バスチアンはいった。だが、その名を口にのぼすことが、どうしてもできなかった。もし、ほんとうにうまくいっちゃたらどうしよう?(略)それより、ぼくはほんとうにファンタージエンにいってみたいのだろうか?[240] 
あの人たちは、だれか、英雄とか王子とか、そういう人がくると思っているにちがいないんだ。ぼくは、とてもあの人たちの前になど出られない。そんなことは絶対にできない。ほかのことなら、なんでもがまんするけど-これだけはできない![241] 
この瞬間、バスチアンの受けた衝撃は大きかった。何かを望んで、それがとうていかなえられない望みであるとわかっているうちは、おそらく何年でも、自分がそれを望んでいると固く信じている。ところが突如、その夢の望みが現実にかなえられそうになると、ただもうあんなことを望まなければと思うものだ。 
バスチアンの場合がそれだった。[266]
涙が頬を流れたのにバスチアンは気づかなかった。なかば気を失ったようになって、彼は不意に叫んだ。
「月の子!今ゆきます!」[268]

アンナおばさんのアップル・パイ

バスチアンはおなかがすいて気がとおくなりそうだった。
なんだってよりによってこんなときに、アンナおばさんのアップル・パイのことを思い出してしまったのだろう!あれは、世界一のパイだ。[190]
アトレーユが化け物の町へ入っていくシーンでのこと。たしかになんでだってアップル・パイ、とは思うけれど、変な違和感はない。このあといつもなら現実に引き戻す塔の鐘が、珍しく本へとバスチアンを連れ戻した。

「近い」とか「遠い」とか

この世界では計ることのできる外的な距離というものはなく、したがって「近い」とか「遠い」とかいうことばも別の意味を持っている。それらはすべて、それぞれに定められた道を歩んできたそのものの心の状態と意思しだいなのだ。[219]
この世界とはここではファンタージエンのことだけど、まさにこの世界でもそうだなと思う。同じ道でも人によって感じ方が違う。同じ人でも、その時によって近く感じたり、遠く感じたりする。

自分自身の物語

「冒険やふしぎや危険にみちた長い物語によってのみ、そなたはわたくしたちの救い手を連れてくることができたのです。そしてこれはそなた自身の物語だったのです。」[237]
このあたりで、アトレーユの物語に幕が降りる。「そなた自身の物語だった」「大きな役目をはたした」という幼ごころの君はアトレーユとフッフールを「大きな洞穴」に連れて行き、何かを飲ます[246]。後のアイゥオーラおばさまの「生命の水を飲むことを許されたファンタージエンの生きものがわずかだけど、いるということよ。」[544]という発言、アウリンの中でアトレーユの「ぼくたちは、前に一度ここに来たことがあるんだよ。」[573]という発言から、アトレーユとフッフールはこのとき誰かを愛することができるようになる生命の水を飲んでいたことになる。アトレーユとフッフールが愛することができる、と考えると後半部分でバスチアンと行動をともにするアトレーユが、ほかの生きものと違いバスチアンのことを考え、行動したことに納得がいくけれど、アトレーユがその水を飲んだ時点で、生命の水がなんであったかはわからない。

文字と幼ごころの君

文字というものが幼ごころの君に好意的でないのは、今に始まったことではなかった。もっともそれは双方からいえることではあったが。[257]
文字が幼ごころの君に好意的でなく、幼ごころの君は文字に好意的でないとはどういうことなのだろうか。古老のことば「わたしを通すとすべてのものは変わりえなくなり、ゆき止まりとなる」[260]との関わりも感じる。



作成:鈴木陵

「人間世界」とファンタージエンのつながりが、人狼によって説明される。

「そこでだ、おまえたちがその中にとびこむと、そいつがおまえたちにとっつく。その虚無がだぜ。おまえたちは伝染病の病原みたいになって人間どもを盲目にしちまう。やられた人間どもは見かけと現実との区別がつかなくなる、とこういうわけだ。あっちでおまえたちのことをなんと呼んでるか知ってるか?」「虚偽(いつわり)だよ!」(200) 
「連中はな、人間の頭の中の妄想になるんだ。ほんとは恐れる必要なんかなんにもないのに、不安がっていろんな思いを持つようにさせたり、自分自身をだめにしちまうものなのに、まさにそれを欲しがる欲望をもたせたり、実のところ絶望する理由なんかないのに絶望だと思いこませたりするんだ。」
「妄想にも目くらましにもいろんなのがあらあな。こっちでおまえらがどうかによって、あっちでも変わってくる。きれいなものはきれいな虚偽に、みにくいものはみにくい虚偽に、ばかなものはばかな、賢いものは賢い虚偽になるってことよ。」(201) 
「だから、人間どもはファンタージエンとそこからくるものをみんな憎み、怖れるんだよ、やつら、そういうものを亡ぼしちまうつもりだぜ。まさにそれが、人間世界にひっきりなしに流れ込んでくる虚偽をどんどんふやしてるんだってことには気がつかねえんだな。」「おまえら自身が、あっちで、ファンタージエンなんてものはないと人間に思い込ませることに利用されてるんだからな。」(202) 
「やつら、支配されてるんだよ。人間どもを支配するのに虚偽くらい強いものはないぜ。人間てのはな、ぼうず、頭に描く考えで生きてるんだからよ。そしてこれはあやつれるんだな。このあやつる力、これこそものをいう唯一の力よ。」「そして何か役にたつことをするんだぜ。ひょっとしたら、人間にいりもしないものを買わせる役にたつかもしれん。そもそも人間が知らないものを憎んだり、盲目的に信じこんだり、救いであるはずのものを疑ったりするのに役だつかもしれん。なあ、ちび、おまえたちファンタージエンの生きものが、人間世界では大きなことを起こすのに使われてるんだ、戦争をおっぱじめたり、世界帝国をつくったり…」(203) 
ファンタージエンに虚無が広がれば広がるほど、それだけ人間世界に虚偽が氾濫し、そしてほかならぬそのせいで、せめて一人でも人の子がきてくれはしないかという望みが、刻一刻うすらいでゆくのだ。(204) 
そういう虚言(うそ)で滅亡させ、もとの姿を失わせ、悪用してしまったファンタージエンの生きものは、何だったのだろう?(略)ファンタージエンが滅亡の危機に瀕していることにバスチアン自身も加担したのは明らかだった。(205)

ファンタージエンの住人が虚無に飛び込むと、虚無がとりつき、人間世界の「妄想」「虚偽」になる。それが人間世界で人間を支配するのに「役に立って」いる。

ファンタージエンでは、陸や海、山や河が人間世界でのように固定した場所にあるのではない。(略)この世界では計ることのできる外的な距離というものはなく、したがって「近い」とか「遠い」とかいうことばも別の意味を持っている。それらはすべて、それぞれに定められた道を歩んできたそのものの心の状態と意志しだいなのだ。ファンタージエンには限りがないのだから、どこでもその中心になりうるーそれとも、その中心はどこからでも同じように近くもあり遠くもあるといったほうがよいかもしれない。それはまったくのところ、その中心にゆこうとする意志のみにかかっているのだ。(219)

幼ごころの君がそこの字を読んでみると、、それはまさにこの瞬間に起こっていることだった。つまり、「幼ごころの君がそこの字を読んでみると、…」と。(258)

書き記される文字を読んでいる幼ごころの君、その物語を読んでいる自分、しかしその物語をバスチアンもまさに今読んでいる、という3重の層があらわれる。

「こんな字が、ある小さい店のドアのガラスに書かれていた。といっても、うす暗い店の中からそのガラスごしに表の通りを眺めるとき、そう見えるのだったが。灰色の、冷たい十一月の朝だった…」(264)

冒頭、「あかがね色」で書かれていた同じ文章が、今度は「青みがかった緑の字」で書かれる。バスチアン自身の話がはてしない物語の一部となった。けれど今まさに自分が読んでいるこの本も「はてしない物語」であって、時空が歪むような感覚になる。

「はてしない物語」の表紙は「あかがね色」で、栞は「青みがかった緑」になっている。本のタイトルやもくじ、ページ数は「青みがかった緑」で、作者・訳者、装画担当者、奥付は「あかがね色」だ。この色の使い分けには何か意味があるのだろうかと考えていて、「あかがね色」は物語の外、人間世界に属するもので、「青みがかった緑」は物語の中を意味するのだろうか。けれどバスチアンの手にした本も「あかがね色」の表紙で、もう境目がよくわからなくなる。そんなことを考えていると、自分がこうして過ごしていることもひょっとすると誰かがどこかで書き記していて、ひとつの物語として誰かが読んでいるかもしれない、自分がバスチアンのような立場にいてもおかしくないという想像が膨らんでくる。そうするとなんだかおもしろくて、もしも自分が物語を書き記したとしたら、それはファンタージエンと人間世界の間を行き来することであるように思えるし、そこには「計ることのできる外的な距離はな」いことになる。
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