【10】ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』第1回レジュメ

2015年10月10日作成 山根澪

装丁の美しさ


訳者あとがきも筆者のプロフィール説明も他の本の宣伝もない装丁はバスチアンが読んだ本と同じようにという意図であり、読みすすめるうちにバスチアンと同じところで表紙を見てアウリンの形をたしかめたりする。そして、同時に日本で出版するという制限を受けてはいるが(奥付など)、ただ本というものを美しく作ろうとするとすればこのようなものを作るのかもしれないと考えた。

本文のあかがね色とみどりいろ


赤と緑は補色であり互いに色を引き立てる関係にある。バスチアンのいる現実とファンタージエンの関係のようでもあるのかもしれない。

(幼ごころの君)「かれら(=人の子たち)はよろこんでファンタージエンにきていたのです。そのおかげでこちらの世界が豊かになり、栄えれば栄えるほど向こうの世界でも虚偽はすくなくなり、よりよい世界になっていたのです。今は両方の世界が、たがいに破壊しあっていますが、それと同じように、たがいに癒やしあうこともできるのです。」[236]

バスチアンの読むということ

バスチアンは本の題名に目をすいよせられたまま、体がかっと熱くなり、たまぞっと寒くなるのを感じていた。これこそ夢にまで見たもの、本きちがいになってからずっと望んでいたものだった。けっして終わりにならない本。本のなかの本![18]
なぜなら、想像すること、それがバスチアンの得意なことだった。おそらく、たった一つの得意なことだった。[37]
これこそぼくのために書かれた本だ、と思った。これこそ、ぼくにぴったりの本だ。[37]
バスチアンは、アトレーユが幸いの竜を駆るようすも、迷路苑やエルフェンバイン塔のようすも、一所けんめい心に描きながら読んできた。[226]
また二つの扉の前に立った。今度はもう一度よく思案してみなければならなかった。一つは緋色で、一つはオリーブ色だったのだ。アトレーユは緑の肌族、そして緋おどし野牛の毛皮でできたマントを着ていた。オリーブ色の扉にはシロで簡単な模様がいくつか描かれていた。あの老カイロンが訪ねていったとき、アトレーユの額と頬に描かれていたように。[325](老カイロンの訪問はp58)
バスチアンの自分自身に対する自信のなさとは裏腹に、これだけ本に熱中できるということには羨ましく思った。バスチアンの読み方を通して、バスチアンがファンタージエンに行く直前、なんとか私も本に入る方法を知りつつあるという感じがした。しかし、バスチアンが感じているような色や形や音やにおいを私が文字から得られないなということも感じた。バスチアンは時折聞こえる塔の鐘の音で集中が途切れ現実に引き戻され様々なことを考える、が、それも深い集中に入ったときにはただ時が刻まれるというこちら側のできごとにしか過ぎなくなっていく。

幼ごころの君

女王という称号が示すように、幼ごころの君はこの無限に広がるファンタージエン国の無数の地方の全てをおさめる統治者ではあるが、実際には統治者以上のもの、というより、それとはまったく区別のものだった。
女王幼ごころの君には、支配するということがなかった。圧力を加えたり権力を使ったりしたこともなければ、命令を発したり裁いたりということも一度もなく、また、攻めてくることも守ることもしなかった。幼ごころの君に反抗したり、攻めたりしようと思うものはいなかったのだ。幼ごころの君の前では、みな何のへだてもなかった。
幼ごころの君は、ただ存在するだけだった。けれども、それが特別なことだった。-幼ごころの君は、ファンタージエンのあらゆる命の中心だった。
すべての生きもの、善なるものも悪なるものも、美しいものも醜いものも、おどけもおもまじめなものも、おろかなものも賢いものも、すべてみな、この幼ごころの君が存在してこその生命だった。この君なしには、何一つ存在しえないのだった。それは、人間の体が心臓なしにはありえないのと同じだった。
この幼ごころの君の存在のふしぎさは、ほんとうに理解することはだれにもできなかったが、みな、そういうことだとわかっていた。だから幼ごころの君はこの国のすべての生きものから同じように敬われていたし、それだからこそ、今は国中のものがみな同じように女王の生命を案じていた。女王の死はとりもなおさずすべての生きものの終末であり、はかりしれないファンタージエン国の滅亡を意味するからだった。[48]

幼ごころの君がどういう存在なのかよくわからない。

バスチアンの心の動き

近くの塔の時計が九時を打った。
バスチアンはいやいや現実にひきもどされた。この、はてしない物語が現実のことをあつかった話ではないのが、バスチアンにはうれしかった。[36]
バスチアンの才能が役にたち、もしかするとみなに好かれ、尊敬されるかもしれないファンタージエンにいるのではないのだ。そう思いながらも一方で、バスチアンはファンタージエンにいるのでなくてよかったと思った。[88]
「いけない」(略)「これだけきちまったものを、今さらもどるわけにはいかないじゃないか。どうなるにしても、先へ進むよりほかないな。」バスチアンはとてもさびしかったが、誇らしいような気持も少しまじっていた。[93]
「よかったなあ、ぼく、ファンタージエンにいるのでなくて。」(略)バスチアンには、この本が気味悪くなってきた。[102-103] 
「ファンタージエン国のものたちがほんとうにぼくのことをしっているんだったら、こりゃあすごいや、それこそお話みたいじゃないか。」とバスチアンは思った。けれども口に出していう自信はなかった。[139]


『はてしない物語』ゼミ第1回 大谷隆 

本書は以前に読んだことがある。読み終わった時に極めて強い衝撃を受けたことも覚えている。しかし不思議な事に、その内容は殆ど覚えていなかった。特に結末は完全に忘れていた。1回めに読み終えた時に「これは想像・創造がいかに危険な旅であるか。その旅から戻ってこれないかもしれない危険性を伴うものだ」というような感想をメモした。2回目を読み終えて、この「読んだことを忘れてしまう」忘却性は本書の(あるいはエンデ作品の)一つの特徴で、おそらくそれが何か重大なことである気がしている。僕はこの感覚を持ってゼミを行きたい。読み終えたのがゼミ開始1時間前だったのでメモとして、提出する。

2015年10月9日、うすい雲を通した日差しに、時々吹く風がジーパンと長袖にちょうどよい。二階のベランダの洗濯物もよく乾きそうだ。午後1時過ぎ、読み始める。

幼少時代に、エンデはバスチアンと同じ強烈な読書体験をしたはずだ。
何かに心をとらえられ、たちまち熱中してしまうのは、謎にみちた不思議なことだが、それは子どももおとなと変わらない。そういう情熱のとりこになってしまった者にはどうしてなのか説明することができないし、そういう経験をしたことのない者には理解することができない。[17]
この後につづくのは、読書中は身体機能すら停止してしまう「本きちがい」にとって、ズバリ言い当てられたとゾッとする記述がバスチアンが本を盗むまで続く[17-19]。この描写はすさまじく、エンデは見事な手腕で一気に読者を〈本〉に沈めこむ。読者はバスチアンに先行して〈本〉に没入する。

すでに、いじめられて「刑」としてしかない過酷な環境のなか、バスチアンにとってかろうじての存在とも言える父親とも別れざるを得なくなり、
今やこの本は、バスチアンに残されたすべてだった。[20]
と、この後続く、絶対的孤独の自覚化への道の始まりを決定づける。やがてバスチアンも〈本〉に入る。エンデの丁寧な導入は『モモ』にも見られるが、本書では特に決定的効果的に読者を〈生活〉から引き剥がしている。

Ⅰ ファンタージェン国の危機

冒頭から「ハウレの森」「ファンタージエン国」といった初出の固有名詞が当然存在することとして書かれ[27]、読者とバスチアンは「すでに物語の中に」位置づけられている。描写視点が、本の中の本を描いている作者に据えることで、二重性を持たせ、読者の現実世界との接続を断つことで、「中の本」が今まさにリアルタイムに書かれている印象すら与え、「本って、閉じているとき、中で何が起こっているのだろうな?」[24]といバスチアンの疑問を実体化している。
なぜなら、想像すること、それがバスチアンの得意なことだった。おそらく、たったひとつの得意なことだった。バスチアンは、本当に目に見、耳に聞こえるように、何かをはっきりと思い描くことができた。(略)この本、今ここにあるこの本こそ、バスチアン自身の話にそっくりだった。[37]
読んだ者自身にそっくりと思わせられるエンデの自己表出がある。あずき色の文字のバスチアンによる語り構造は倉本聰『北の国から』の純の語りと同様のメタレベルの二重表現を可能にする。

Ⅱ アトレーユの使命

かろうじての存在だと読者に思わせていた父が、「母さん」の死によって、
あの日以来、そんなこと(いっしょにふざけたり、本を読んでくれたり)はなくなってしまった。今では父さんと話をすることもできなくなっていた。父さんのまわりに目の見えない壁ができ、それを超えることはだれにもできない、という感じだった[49]
と、父の孤独とともに、バスチアンの孤独が明かされる。

54ページ。バスチアン10時、僕2時40分。36ページからバスチアン時間で1時間が経過。僕時間20分。想定される読者としての子どもであれば、ほぼ実時間か、それよりやや短いぐらいか。 

アトレーユ登場。アトレーユは、大人になる直前の、まさに「矢をつがえて、それ、今だ!」という時に呼び戻された少年である。
アトレーユもまた「親も、兄弟もない」孤独さを持つ。同時に「みなの息子」である。バスチアンは「だれのでもない息子」としてより孤独の強度が増す。[63]

そして、アトレーユの旅立ちへの自覚と同時に、おそらくはアトレーユの自覚化、意識化「によって」虚無の使者が誕生する。

アトレーユは、夢で緋おどし野牛から太古の媼モーラについて聞かされる。そのためには7日間の旅が必要で、それぞれの日の行動と夢とが対応するように描かれている。アトレーユの2つの重要な体験のうち、虚無の「目撃」は、アトレーユの行動が欠くべからざるもの(トロルがアトレーユの行動を聞き及んで知ったからこそ、忠告しにやってくる)として描かれるが、モーラの存在は現実世界の行動=努力とは別にもたらされている。

モーラによって、
よいか、幼ごころの君の存在は、時の長さではかられるのではのうて、名前によるのじゃ。新しい名前がいる。[85]
と明かされる。この〈名付け〉は後に、〈世界〉の最初の意識化となる。この最初の意識化=名付けによって〈世界〉がバスチアンの意識として、バスチアンの中に誕生する。世界の誕生そのものとして幼ごころの君の存在があるということが、「ファンタージエン国のあらゆる命の中心」[48]の意味だろう。

<バスチアン時間と僕時間>

読書中は現実世界からいなくなり、現実世界での記憶を失っている。リズムを作るために導入され、そのたびにバスチアンが現実世界に戻るきっかけとして「鐘の音」が使われている。外的な刺激によってしか引き戻され得ない体験として読書体験がある。

読書開始。僕午後1時過ぎ。
36ページ。バスチアン午前9時。僕午後2時20分。
54ページ。バスチアン10時、僕2時40分。
65ページ。バスチアン11時。僕3時5分。バスチアンと同時に空腹を思い出す。
76ページ。バスチアン12時。僕3時20分。
98ページ。バスチアン午後1時。僕7時20分。買い物に行き、夕食を済ませた。
119ページ。バスチアン午後2時。僕7時30分。
130ページ。バスチアン午後3時。僕7時45分。
141ページ。バスチアン午後4時。僕7時55分。
163ページ。バスチアン午後5時。僕8時5分。
180ページ。バスチアン午後6時。僕8時15分。
192ページ。バスチアン午後7時。僕8時55分。途中休憩しホットミルクを飲む。
205ページ。バスチアン午後8時。僕9時10分。
218ページ。バスチアン午後9時。僕9時16分。
228ページ。バスチアン午後10時。僕9時25分。
246ページ。バスチアン午後11時。僕9時35分。
268ページ。バスチアン午後12時。僕9時50分。
578ページ。バスチアン翌朝9時。僕翌朝11時55分。寝て起きて読んでいた。
589ページ。僕12時。読了。
Share: