【09】網野善彦『異形の王権』第1回レジュメ

2015/09/19 小林健司作成

本書に置ける網野善彦のスタンスは、下記のように提示されている。
「衆学的成果にまで到達」するための「衆知」の微小な一端になり得れば幸と思い、以下、本書(標注 洛中洛外屏風 上杉本のことか)や『絵引』をはじめとする諸研究に触発されて気づいたことの一、二をのべてみたいと思う。[13]
他にも「この書を十分に理解することは、私などには到底不可能であり、何かの発言をする資格はもとよりない」[12-13]と、自分を下げた謙遜のようにとれる表現がされているが、あとがきに、「イメージ・リーディング」として出すことへの抵抗感を「羊頭狗肉、名が体を表していないことは間違いないと思うが、編集部の強いお勧めに従って、あえてこのような形で公刊することにふみ切った。」[265]ということばで示していることからも、自らの発言や発行する本に対して正確さを大切にしている姿勢をうかがうことができる。したがってこれらの言葉も、その正確さを頼りにするなら多少の謙遜はあったとしても本当に思っていたのだろう。

一 摺衣と婆娑羅

派手な模様を染め摺った狩衣などの摺衣が、少なくとも9世紀前半、公事の際には婦女・鷹飼などの特定の職掌の人に許される状況であったこと。言い換えれば、それ以外の人には許されていなかったこと。それが十一世紀の前半には、放免については「「禁忌」はすでに完全に破られていた」[17]。そして「十二世紀に入るや、さらに広く京に拡がっていった」[17]こと。さらに、「度重なる禁制にも拘らず、こうした「非人」の衣装の流行は押え難く社会に拡がっていく。」[18]ことになり、「平安末期の摺衣と博戯・飛礫の輩との不可分な関係は、ここにいたって「結党の悪党」の風俗として一層明瞭になって」[19]いき、「天下ノ目耳ヲ驚」かしたこうした悪党たちの生命力の噴出する中で、鎌倉幕府が倒れ」[20]るに至った。

ニ 「異類異形」といわれた人々 、 三 服装の近世化

ここでは、覆面・裹頭の姿を中心にして、鎌倉・南北朝期の前後で「異類異形の」の人々が、聖なるものから賤への転化していく様子が提示される。前章のおわりに、「婆娑羅」姿の人々を「異類異形」として差別する社会の空気が固まりつつあるものの、鎌倉南北朝期にはまだ支配的ではなかったと思うとして、南北朝期には「「異類異形」の姿はむしろ多いに好まれ、さまざまな階層を広くおおったのである。」[28]とし、「宮本常一はこれを一種の流行現象として、的確に指摘している」[28]と続ける。特に、「絵詞伝の作者が非人の集団をまとまった形で描いている点に、さきのような(「異類異形」の人々を特定の人々のそれとして憎悪・嫌悪する)社会の空気が反映しているとみることもできるのではあるまいか。」[33]という意見は、さきの度重なる禁制の裏に押え難い流行があったという、反転した事実をすくいとる網野の手腕が同様に光っている一説である。一遍を含めた、乞食の僧侶、非人、癩病患者をまとめている点が、聖と賤の不可分な結びつきを示している、という指摘は、完全犯罪をなしとげようとする犯人が現場から持ち去った物に、犯人を特定する手がかりをつかむような、名刑事の推理を見ている気分になる。さらに網野の指摘はそれだけにとどまらず、類似した資料の絵からも同様の指摘を繰り返している。

それらが露骨に現れてくるのは、1604年の資料にまで時代は下り、「ここにいたって、「異類異形」の語は、はっきりとした差別語として定着したといってよかろう。」[36]としている。網野は、近世社会の差別について、「穢多・非人」だけでなく、「芸能民」や「かぶき者」も含めた広く「異類異形」とされた人々を含めて考える必要のあることを指摘し、その意味において、南北朝の動乱が「日本の構造自体を転換させた重要な画期をなしている」[36]と位置づけ、室町期以降には、「新たな服装の秩序として形をなしていく」[38]「体制的に固定化されていく」[41]と結んでいる。

童形・鹿杖・門前

「異類異形」に続けて、絵巻物に見られる童形の人々について、同様に聖から賤への転化が起こったこと、そしてその転機がやはり南北朝の動乱の前後にあったことを示していく。
しかし「自由」といっても、もとより童が自立した生活をしているわけではなく、こうした童たちは、何らかの意味での「従者」であり、公家・武家に使えた小舎人童などのように、主に養われる立場にあった。[56]
無縁、異類異形、禁制を破った行動、と聞くと、何者にも縛られない存在をイメージしてしまう。本書をここまで読み進めてきた自分の中にもそのような像が結ばれつつあったが、この一文によってその像は崩された。聖なるものは、その言葉通り神などの人間の埒外の領域を司る人のことで、そういった力を統治のために扱った権力や支配者の存在を改めて認識する。

しかし、
イエと外界を堺する場である門前は、河原は中州に立つ市庭などと同様に、聖なる場として「高声」が許されたのではなかろうか。それ故にそこでは尋問・対決が行われ、高声の訴えがなされ、さらに鼓を打つ芸能民や商人、乞食・非人が□集したのだろう。門前町が生まれるのは、こうした背景があったからに相違ない。[83]
ここで描写されている「門前」の風景は、賑やかで中世で自由を指す「無縁」の生き生きとした力を感じる。おそらく、そのどちらもがあったのだろう。

蓑笠と柿帷

「異形」の姿は、むしろ狭義の芸能の世界において、見事な開花をみせるようになったのである。[138]
まさしくそのころから、一揆する百姓・馬借たちが意識的に、差別される乞食・非人の衣裳を身にまとうようになる事実に注目しなければならない。[138]
まさしく「一揆の衣裳」として普遍化していくところに、私は近世社会の地底に脈々として進行する「無縁」の思想の自覚化の過程を見出すことができると思うのである。[139]
もしも民権家がそこまで意識していなかったとしても、このスローガン自体が、民衆にそうした心をよびさますものをもっていたのではなかろうか。
「異類異形」の人々が聖から賤へ転化していくなかで、「無縁」の思想の自覚化が起こること、そしてそれは明治以降の社会にも衣裳やスローガンとして人々の中に残っていったのではないか、という推論につながる文章を珍しく書いている。

まとめ

全体を通して、網野善彦は、衣服・しぐさ・飛礫など、この本の「絵引」から読み解くという立ち位置を起点に、それらが南北朝の動乱前後で聖なるものから賤に転化して行く様子を、膨大ともいえる資料を論拠にしながら社会の変動と結びつけてすくいとっている。その手法は、網野善彦の持ち味ともいえる「禁止されていることの意味」や「絵を描いた人の認識」という、文字や絵を書いた人が指示表出として提示しているものの中にある自己表出性を指摘して読み解いていくもので、それらを息つく暇なくあげている。

そしてそれらは、まるで一つの文章を一言ずつ読みながら「ここでこのような言葉を使う以上このようにしか読み取れない」というように、書き手・描き手の自己表出を含めた事実として積み重ね、断定できない部分については不明な箇所を具体的にあげて不明なまま提示されている。また、網野自身の個人的な意見や推測については語尾から明確に読み取れるようになっていることからも、冒頭に述べたように網野が事実を正確に扱おうとしていることをうかがわせる。



2015年9月26日 資料・発表:大谷隆 

■「非人」とはなにか。

網野は、「異形の風景」において『絵巻物による日本常民生活絵引』やその周辺研究から、気づいたことを述べるという形をとって、「非人」の装束、非人に対する見方の聖賤の変化を「南北朝動乱をこえた室町期ごろから」に見ている。「異形の力」においては、「無縁」の人ではない状態にある百姓らがその装束を身につけることの意味を解く。
「無縁」の人々の衣装、しかもすでに抑圧され、差別される人々の服装を自ら意識して、一斉に身につけることによって、百姓や馬借はその行動の「自由」と、抑圧者と闘う不退転の決意を自覚的に表明したのではあるまいか。[138]
恐らくは、象徴的な意味において、失うものはなに一つ持たぬ抑圧された非人・乞食の衣裳を自ら身につけることによって、不退転の決意をもって権力と立ち向かうことを、(略)民権家たちは人々に広く呼びかけたのであろう。[139]
ここで網野が意図的にカギカッコに入れて「自由」とした、「その行動」とは
いわば俗世界の規制に全くとらわれぬ行動[134]
具体的には、「合掌する安楽房を処刑する」こと、飛礫を打ち人に怪我を負わせたり、殺したりすること、「一人で旅をする女性の場合、性が解放されていた」りすることをも含む、「自由」な行動である。こういった「自由」な行動はすくなくとも現代においては「人として」許しがたいこととされているが、網野は、この時代は許されていたのだ、というよりは、この時代も人としては許されてはいない、がゆえに、人ではないもの(非人)になって行動したのだ、と書いている。

こうみると、「非人」という言葉は文字通り「人に非ず」な存在であるが、ここでいう「人」は「人として許される行為の中にある」存在という意味であり、生物学的な「ヒト」とは異なることがわかる。「人として許される」というのは「あるコミュニティの中で社会的・心理的な関係性を維持するために当然の規制(=「常識」)の範囲内で許容される」と言い換えても良い。だからこそ、安良城盛昭氏が、マルクス・エンゲルスを援用し、
「人間は所有する動物である」ということは「自然科学的にも社会科学的にも確定している科学的事実認識」であって、「イデオロギー=思想」ではなく「人間の本質についての最も基礎的な規定」であることを強調[『増補 無縁・公界・楽』補注(29)p.328]
することに対して
「所有」、自然に対する支配への志向を持つ人間は、いうまでもなく動物の一種であり、自然の一部であることも事実である。そしてそれも、人間の本質を考えるさいの最も基底的な事実といわなくてはならない。[同329]
と網野は「無所有」を人間の基底に据えることによって、「無縁」「非人」を含めて「人間」を見ている。

僕が、初めて網野の「無縁」の概念にであった時に世界に亀裂が入る解放感を感じ、そして「無縁」にのめり込んでいったのは、その亀裂が「人として」の世界から「非人」の領域を垣間見させてくれたからで、僕にとっての「人間の基底」の拡大にほかならない。

■装束の必然性

網野は、一揆などの場で、普段は「非人」ではない「人」が、「非人」の装束になることを「象徴として」と書いているが、これは、「人」の側から見てその装束をまとうことの意味が象徴にあるということで、「非人」の側から見た場合、自分がその装束をまとうことは、もともとは何かを象徴するわけでも、意志するわけでもなく、機能的・生理的・本能的な必然であるはずだ。

現代において、スーツを着る、ヒゲを剃る、襟付きのシャツを着る、といった「(社会)人として」あるべき姿にたいして、ジーンズ、Tシャツ、無精髭などは、「楽だから」「動きやすいから」「わざわざそらなくても困らないから」という機能的・生理的な理由が先行するはずで、その発展として象徴性や主張性は二次的に発生しているにすぎない。むしろスーツ姿などは、「(社会)人」として規制の中にある。

また、派手な服で着飾る、おしゃれをする、メイクをする、髪型を整える、あえてだらしない格好をする、悪ぶる、といった「婆娑羅」的指向も、そういった立場を象徴したいという以前に「一目置かれたい」「異性にもてたい」「かっこ良くかわいく美しく見られたい」「自分自身を素敵だと思いたい」「自分を重要な存在として位置づけたい」といった、より本能的な必然から来ている。

歌舞伎役者の派手な姿や拡大増幅された目の動きは、舞台上でも映え、遠くからでも認識されるようにという芸能上の必然であり、煎物売[41]が覆面をするのは煙を吸わないためである。白拍子が美しい髪を垂らした垂髪[39]であり、それと比較して、販女が白布で髪を包んでいる[40]のは、売るものの違いからきている。

ある頃に、こういった必然からの装束によって、別々の「人間」がひとかたまりとして分類しうるぐらいの指示性を持った時、その「人間」の職業の種類や性質が「人として」の社会性から逸脱している度合いによって、それを「人としての有り様から外れていること」として、「非人」と呼んだのだろう。この時点では、「人として有り様」の外ということの指すものとしては、「人の領域」に対して多くの場合は「神の領域としか呼べない」という意味合いで「賤しい」という意味はなかっただろう。

■二分概念の「有縁」「無縁」から、「有縁性」「無縁性」という濃淡へ

以上のような意味で、現代においても「人」から「非人」へのグラデーション(濃淡)は存在し、むしろ現代社会は「人として」の領域が階層化され、自らを「真の人」と言い切れる領域は狭くさえなっているのかもしれない。その結果、現代は、「人間」が「人」から「非人」へ、あるいは「非人」から「人」へ、グラデーションを移動する「自由」さえも手に入れつつある。非・無は有に対する否定としての一面性しか語り難いが、無縁や非人は、有縁や人に対する単一軸的な対極としてだけではなく、吉本隆明の「自己表出」「指示表出」のように、「無縁有縁性(指示表出)」という水平軸に対して垂直に立ち上がるもう一つの軸(自己表出)の存在をも含めた「非人」「無縁」の原理があるのではないか。(押廻理論もその中で語りうるかも)

2015/09/26 山根澪

第1部 異形の風景

■摺衣と婆娑羅-『標柱 洛中洛外図屏風 上杉本』によせて

絵巻物をはじめとする多様な絵画を、歴史学・民俗学・文学等の資料として「読む」試みが、最近、ようやく本格的になってきた。[6]
佐竹のいう通り、「画の一齣々々の「意味(こころ)」が徹底的に読まれるべき必要」を、私も痛感する故に、(略)気づいたことの一、二をのべてみたいと思う。[8]
絵を「読む」ことにワクワクできる。絵巻と聞くと読み方を教えられて見るもの、と思い込んでいたように思うけれど本書を手がかりにそこを越えて行きたいと思わされる。

一、非人の衣装
図4の人々には「婆娑羅」の全盛時代であったころの悪党のような華々しさはうかがわれない。乞食・非人を含めて、打ちひしがれたみじめさは、もとよりここにはないが、これらの人々の眼には陰鬱なふてぶてしさがみなぎり、暗い怨念すら込められているようにみえる。[16]
絵巻をこのように印象で読んでいいのかとはっとさせられる文章。図4は『融通念仏縁起絵巻』(15世紀)、『「婆娑羅」の全盛時代』は図1『法然上人絵伝』(一四世紀中期)などを参照すればよいか。図1では確かにその立ち居振舞いにも自信が見られ、衣装はただ柄が派手であるだけでなくたっぷりとボリュームをもって描かれている。

二、「異類異形」と言われた人々
『一遍聖絵』の詞書で「異類異形にしてよのつねの人にあらず」と言われた「略猟漁捕」を事とする人びとを画に即してみると、蓑帽子をかぶり、腰に「うつぼ」をつけた狩人たちの姿(図5A~C)は、たしかに「異形」ともいえるが、供をつれ、堂々と胸を張って闊歩する彼等には卑賤視の影は全く無いといってよい。(略)一遍に従うさまざまな人々に立ち交わっているのを絵巻の中に見出すこともできる。[18]
悪党が跳梁し、「婆娑羅」の風が風靡した南北朝期は、守谷毅が『太平記』は「「異類異形」という表現が目につく書」といったように、「異類異形」の姿はむしろ大いに好まれ、さまざまな階層を広く覆っていたのである。[20]
異類異形の人々はその他の人々と交わって存在していた。異類異形を目指して出現したのではなく、個人や小さなまとまりの合理性の上に婆娑羅が出現したのではないか。

ここには「異類異形」と絵巻の筆者のみる人びとを一括してとらえ、描こうとする差別的視点がはっきりと貫かれている。[23]『天狗草紙』
一遍、乞食僧、乞食非人、癩者の四集団が厳然たる身分的差別を示すものとして描き出されている[24]『一遍上人絵詞伝』
清涼寺融通大念仏の折に堂の前に集まった人々として、猿曳、鉢叩き、覆面する僧など、まさしくさきの差別的視点から「異類異形」といわれた人々の姿が集中してとりあげられているのである(図10A、B)[25]『融通念仏縁起絵巻』 
個々の人間の細部の描かれかたのみでなく、「異類異形」の人々が集団としてどう捉えられていたかを構図においても網野は示している。「異類異形」の人々はその集団として大きくなり、その他の人々とは距離がありように見える。

非差別民を一まとめにして「異類異形」と決めつける見方がここに露骨に現れてきたのであるが、(略)『祭礼記』は「乞食、非人、鉢拱、唱門師、猿使、盲人、居去、腰引、物イハズ、穢多、皮剥、諸勧進之聖」と並記したのち、それらをすべて「イルイ異形、有雑無雑」と言い放っているのである。この記録の筆者自体が、とくに意識せずにこうした差別的な言辞を無神経に使っている点に重大な問題がある。
ここにいたって、「異類異形」の語ははっきりした差別語として定着したといってよかろう。[27-28]
「とくに意識せずに」というのは絵巻についてもいえることだろう。異類異形を集団として差別するために取り上げたのではなく、絵を描いた人に風景はだたそのように見えていた。そのように絵を「読む」と、贔屓目に見ているとは思うが『一遍聖絵』が捉えた視線(図19、27、28など)は自然の中の人間を捉えていたことを他の絵巻に比較して思う。

三、服装の「近代化」
網野は「南北朝の動乱期は服制の大混乱期といえる」[29]という。例えば、婆娑羅の流行、女性も覆面を行なうなどだ。それが「近代化」の方向へ向かっていることを宮本常一は指摘しており、僧侶の服装が現代とほとんど変わらなくなることなどをあげている。『日本の歴史を読みなおす』において、網野は「現在の転換期と同じような大きな転換が南北朝の動乱期」[6]と言っているが、50年前程前からかなり服装が変わっているように思う。転換が、服装の面にも影響を与えているのかと思うと面白い。

第2部 異形の力

蓑笠と柿帷-一揆の衣装

悪党は、こうした「異形」をよそおい、人ならぬ存在であることを自ら示すことによって、(略)いわば俗世界の規制に全くとらわれぬ行動を、縦横に展開したのであった。[108]
服を見るだけで意思を感じる。「流行を着る」意思、「着飾らない」意思。それが自分との関係性において、「話しかけやすい人」に見えたり、「遠ざけたい人」に見えたりもする。

「無縁」の人々の衣装、しかもすでに抑圧され、差別される人々の衣装を自ら意識して、一斉に身につけることによって、百姓や馬借はその行動の「自由」と、抑圧者と戦う不退の決意を自覚的に表明したのではあるまいか。それが江戸時代を通じて、まさしく「一揆の衣裳」として普遍化していくところに、私は近世社会の地底に脈々として進行する「無縁」の思想の自覚化の過程を見出すことができると思うのである。[23]
「差別される人々の衣装を自ら意識して、一斉に身につけ」られるということは、もちろん差別されない人の衣装を身につけることもできる。例えば会社ではスーツを着たり、近所を歩くのにドレスを着ないことなど。反対に思い出すのがマルイでメガネを買った際に集まった5-6人が甚平、雪駄、など好き勝手な衣裳を身につけていたことで、「ちょっと目立つんじゃないか」という意識を持ちながらもそれを着ていくという意思の中にも網野のいう「無縁」原理の強靭さを感じる。

原始のかなたから生きつづけてきた「無縁」の原理、その世界の生命力は、はさしく「雑草」のように強靭であり、また「幼な子の魂」の如く、永遠である。「有主」の激しい大波に洗われ、瀕死の状況にたちいたったと思われても、それはまた青々とした芽ぶきをみせるのである。(『増補 無縁・公界・楽』平凡社選書p263)

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