【05】『増補 無縁・公界・楽』第6回レジュメ

2015年6月14日
作成:小林健司

■十五 関渡津泊、橋と勧進上人

さまざまな縁で対立し、あるいは結びあう有縁の人々から寄捨を得るのは、それによって縁を生ずることのない「無縁」の原理を身につけていなくてはならなかった。禅律僧や時衆などが勧進をさかんに行ったのは、まさしく彼らが「無縁」の聖だったからにほかならない。[157] 
家々を遍歴する変わりに、国家機構を全面的に利用し、それに依存して、間別に銭を徴収、勧進の目的を達成しようとするのであり、きわめて虫のよい方式、といわなくてはならない。[162] 
とはいえ、勧進がこのように体制化していくとともに、遍歴の勧進聖は次第に軽んぜられ、蔑視され、やがて自らも物乞いに堕ちていく傾向ができたことは、否定しがたい事実であろう。[163]

■十六 倉庫、金融と聖

実際、倉庫は「無縁」の場でなくてはならなかった。「無縁」であるからこそ、そこは「平和」な場だったのであり、貴重なものの保管は、ここにおいてはじめて真の安全を確保された。だからこそ、戦乱の中で、人々は大切な伝来の文書などを寺院に預けたのである。そうした場を管理する人に、「無縁」の上人・聖が最も適当であったのは当然であろう。そして、このような「倉庫」を管理する人々が、保管物を動かして、金融活動を行うようになるのも、また自然の成り行きであった。とくに、人の手から手へと流通する銭は、それ自体「無縁」の特質をもっていたともいえるので、上人・聖などが扱うにふさわしいものと考えられたのではなかろうか。[172] 
「無縁」の上人たちのなかには、こうした機会をとらえて、さらに富裕になっていく人々が少なくなかったであろう。政治だけではなく、経済の分野でも、鎌倉末から室町期にいたる時代に、これらの人々の果した役割は大きかった。「無縁」であることが、政界の中枢とつながるみちをひらいたのと同様に、ここでは、「無縁」であることが、主として動産に対する私的所有を保証し、その蓄積をたやすいものにしている。「無縁」の原理は、こうして致富のための梯子になっていった。もとより、これもまた「無縁」の原理の衰弱、「無縁」の人々の「堕落」の一過程にほかならない。 [174]
無縁の原理によって「公」性を帯びた無縁の場や行為が発生するが、その力を無縁の世界に留まって行使するか、私的所有の足がかりとするか、というところで大きく進路が変わってくるように思う。とはいえ、人間が無縁の力を手にいれながら、私的所有に走らずにそう言った場や行為を保ち続けることは難しいだろう。そういった無縁の力を、無縁のままに発揮する試みが円坐なのではないだろうかと思う。

後に出てくるように、もともと存在した自然信仰の社会?も原無縁と言われる無縁性をもった世界だったこと、中世に入ってからも、木を切ったり、大きな石を動かしたりするのに穢れが発生するという観念が存在したことなどから想像するに、無縁性のみがある場合、つまり背中合わせに有縁や有主の存在が無い場合は、効率や生産性、発展性とは全く相容れない状態だったと思われる。そこに、無縁の原理と共存できる形で、というよりも、無縁の原理にあからさまに反しないように、両方の原理が反発しないバランスを保ちながら有縁・有主の原理を取り込んでいったのではないだろうか。最終的には、今度は無縁の原理の支えが無く、有縁の原理に大きく比重が傾き、現在に至っているが、その拮抗した状況をくぐり抜ける結果として、本音と建前が分けて考えられる現象が発生したと考えると、これまでの景色がつながる。

■十九 寺社と「不入」

もしさきの見方が、「公」の欺瞞性にこだわる余り、この事実すらも否定し去るならば、そこには人民に対する絶望、あるいは鼻もちならぬ人民に対する軽侮、津田左右吉氏が、その一生をかけて批判しつづけた、あの人民生活に根をもたぬ「知識人」特有の傲慢しか残らぬ結果となるであろう。もとよりそれは学問=科学とはかけなはれた姿勢と私は思うが、万一、人がこの姿勢をとることをもってのみ「科学的」というならば、そうした傲慢な「科学的歴史学」に対し、私は決定的な不信をもってむくいるほかない。なぜなら、それは津田氏の天皇観を真に克服する道を、最初から閉ざした姿勢だからである。[211] 
われわれはここでも、さきに倉庫・金融と動産私有との関連に即してふれたのと全く同じ問題に突きあたる。有主・有縁と無主・無縁とは、「不入」の場合にも背中合わせに現れるのである。有主・有縁—私的所有が、無主・無縁の原理—無所有に支えられ、それを媒介としてはじめて可能になるという事実は、きわめて本質的な問題を提示している[212]

いわばある特定の場を「無縁」の場、聖なる場として囲いこむことによって、それを自らの所領とするという慣習は、「家」の成立の場合にも考えることができるのではなかろうか。保立氏が前掲著書で指摘されたような守宮神、摩多羅神にせよ、竃神にせよ、特定の場をその聖地—「無縁」の地−として囲いこむことによって、私有の原点といわれる「家」が形成されたといえるのではなかろうか。この「聖なる空間」をまもるために、文には勧請縄が張られ、周囲は垣根でめぐらされたのである。実際、飯島吉晴氏が「竃神と厠神」(人文書院 一九八六年)で豊富な民族例をあげて明らかにされたように、家の中の竃、倉、納戸などにはさまざまな神が住んでおり、厠もまた厠神の住む、異界とこの世の堺ともいうべき場であった。[補注26:320]
家を所有するという概念自体が、無縁の場を囲い込み、私有が生じることによって成り立っているとすると、年代的にいつごろになるのかなどは分からないがおそらく縄文・弥生時代ごろには、全ての人が聖地に住む無縁の原理の中に生きる人ということにはならないか。そのような感覚や意識が現代にまで続いているのだろうか。

中沢新一氏の、カイエソバージュシリーズでは、この無縁の中から私有が生まれる過程について、神話の世界と結びつけて語られている。家の中に異界との接点がある、というのは私有しているとはいえ、完全な私有とはいえず、まだ無縁の世界=神々の世界、との接点を残した形態だと言える。

エンガチョなどの遊びや、住居など、人の暮らしの中にそうした無縁の原理が顔をのぞかせている風景は、アニメや漫画で妖怪やお化けが一方的な恐怖の対象ではなく、退治することも含めて上手く付き合っていく対象として描かれていることとつながりがあるように思われる。



2015年6月14日 資料・発表:大谷隆 

■十五 関渡津泊、橋と勧進上人

鎌倉末から南北朝期、厳しい差別、批難を浴びながら、同時に政治や金融で極めて広範囲かつ活発に活動していた「無縁」。しかしこの時期「堕落」も始まる。それは無縁と有縁に関わる背理・矛盾を生む。

木戸を構えて銭をとり、関米をとるといわれている点に、勧進の新方式が、はっきりとその姿を現わしている。津泊・渡・橋・道路等、「無縁」の場に、「関」を立て、そこを通行する「有縁」の人々から「関銭」「関米」などを徴収する勧進方式がそれであり、(略)この方式は、鎌倉後期以降、広く勧進上人によって採用されるにいたったのである。[161]

ここで上人たちは、そうした「無縁」の場を、権力によって保証され、公認された関所と定め、代官を置いて津料・関銭を徴収させ、いながらにして勧進を行うことになったのである。交通の著しい発達、交通量の増大が、こうした方式を可能ならしめたことは間違いなく、その意味で、勧進の発展形態ともいいうるが、しかしその本質、「無縁」な上人の本来のあり方からみれば、これはやはり一種の「堕落」、勧進の体制化といわなくてはならない。[161-162]

そしてそれは、もう一つの勧進の新方式、棟別銭の賦課において、さらに露骨であったといえよう。(略)いわばこれは門付の勧進の体制化であった。家々を遍歴するかわりに、国家機構を全面的に利用し、それに依存して、間別に銭を徴収、勧進の目的を達成しようとするのであり、きわめて虫のよい方式、といわなくてはならない[162]

勧進がこのように体制化していくとともに、遍歴の勧進聖は次第に軽んぜられ、蔑視され、やがて自らも物乞いに落ちていく傾向が出てきたことは、否定しがたい事実であろう。[163]
堕落していく様子がよく分かる。
 本書の前半で出てくる無縁の人々が関所を自由に通れるという事例を、無縁性という特殊な性質をその人々が身につけていたから、と読んでいたが、そもそも関所自体が無縁の人々によって作られたのであれば、それは当然のことだった。

■十六 倉庫、金融と聖


この「堕落」は、言い方を変えると、無縁無主が有縁有主=私的所有を成立させた、となり、矛盾が生じてくる。
「無縁」であることが、政界の中枢とつながる道をひらいたのと同様に、ここでは、「無縁」であることが、主として動産に対する私的所有を保証し、その蓄積をたやすいものにしている。「無縁」の原理は、こうして致富のための梃子となっていった。もとより、これもまた「無縁」の原理の衰弱、「無縁」の人々の「堕落」の一過程にほかならない。[173]

■二十 「アジール」としての家

前章最後、
有主・有縁—私的所有が、無主・無縁の原理—無所有に支えられ、それを媒介としてはじめて可能になるという事実は、きわめて本質的な問題を提示している、と私は考えるが、この「矛盾」が最も本源的な姿をとって現れるのは、さきにもふれた「イエ」、家、屋敷であろう。[212]
とあるようにこの章では、これまでの網野の無縁論が有縁—私的所有の本源にまで踏み込む。
大山氏の主張は、ひとしく「イエ」であるにも拘らず、領主の「イエ」が領主的・私的支配の根拠になり、百姓の「イエ」がそうした支配に対する抵抗の拠点となるのはなぜか、という最も根本的な問題を問うことなしに展開されているため、否応なしに不透明なものになっている。大山氏は百姓の「イエ」が「私的所有の原点」であるとする一面での正確さをもつ通説に、なんらの疑問も抱いていないようにみえる。(略)それは立場こそ異なれ同質の私的所有者同士の争い以上のものではなく、分前を奪い合う獅子の闘争という評価に落ちつかざるをえなくなるであろう。[219]
「主従制的支配」と「統治権的支配」。
本宅・本領の保証が統治権者によって行われなくてはならなかった、というこの事実は、家を「無縁」の場と考えれば、前述してきた「無縁」の場に対する統治権的な支配と、完全に照合するものと理解することができるのではあるまいか。[220]
このように考えれば、「無縁」の原理を豊かにたたえた人民の生活そのものの力によって、否応なしに対応を余儀なくされた支配者のあり方、支配者の中に人民のうちこんだ、支配者たろうとする限り、「永遠に」解き難い矛盾として、より動的、かつ透明に捉えることが可能になるものと、私は考える。[221] 
大雑把な理解だけれど、主従制的支配=人間関係による支配、統治権的支配=法・行政制度による支配。つまり、家は人間関係(主従関係)によって支配できず、法・行政制度によって(ようやく)支配が可能となる。それぐらいアジール性・無縁性が高い。

土地・人間を問わず、「私的所有の原点」は、まさしく家にあることは疑いない。
しかし、この事実そのものが、「無縁」「無主」という、全くそれと相反する原理に支えられて成り立っていることも、また否定しがたい事実である。[222]

この「私的所有の原点としての家が、無縁によって支えられて成り立った」という論については「難解である」との批判があり、それについて補注(26)で、
このように(本文で)書いたのは、私的な所有権がまずそこを神の住む場、だれのものでもない「無所有」の場として囲いこむことによってはじめて形成されてくること、そうであるが故に、私的所有は長年にわたって、その出発点のこうしたあり方に制約されつづけてきたことをのべたかったからにほかならない。[322-323]

と補足している。またこの所有のあり方を「前近代的所有」とも記している。

無縁から有縁が生じるという背理・矛盾については、このように一応、理解可能である。

■コメント(大谷)

  • レジュメでは上がっていなかったが「十八 女性の無縁性」について、網野が書く、「女性の世界史的敗北」[198]とは何かという、吐山さん、早山さんから出された疑問に対する考えをコメントととして残しておく。  女性の性が「敵味方の沙汰に及ば」ぬ立場で、争いそのものが無いという「平和」性と、「子を生む」という神の領域にあるものとの重なりによる「聖」性を、網野は「女性の無縁性」として書いているのではないか。  とすると「女性の世界史的敗北」とは、一つは敵を打ち倒し排除することで勝ち取る平和、もう一つは産業革命などによる「聖」性をまとわぬ「生産」の出現という、近代以降に顕著に現れた二つの世界史的状況を網野は女性性の「敗北」ととらえているのではないかと、一旦書いておく。

■コメント(山根)

  • 「女性の世界史的敗北」となぜ括弧に括られているのだろうと疑問に思っていた。勝利すること、あるいは戦うことを志向しないことが女性の特質のひとつであれば、「敗北」というのは女性の側からの言葉ではなく戦わざるをえない人々が現わしたものなのだろう。そう思うと、例え女性がこの世界史的戦いに「勝利」したとしても、そのことによって非権力的な特質を持つ女性の解放へとはつながらないのは納得がいく。むしろ、この戦いに臨むことは女性の特質を自らの手で殺してしまうようでぞっとする。女性の現実は、男性の理想であるなど、ゼミでの言葉を思い出しながら考えていた。 
  • 時代とともに衰退していったという女性の特質、「無縁」的特質をもっと細かく見ていきたい。 
  • 私的所有に関して、人間(自分といもの)も含めて所有がなかったかもしれないという指摘は驚いた。例えば「こども」が「私の」こどもでもなく、「私たち」のこどもでもなく、「村の」こどもでもなく、「国の」こどもでもなく「こども」であったとすれば・・・と想像していると、所有感覚の違いというのは「子どもは人間と考えられていなかった」(『日本の歴史のよみなおす』p161)という今とは全く違う認識を読み解く糸口にならないかなと思ったりする。
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