【06】『贈与論』第2回レジュメ

2015/05/09 山根澪

第2章 この体系の広がり。気前の良さ、名誉、貨幣

一 寛大さに関する諸規則。アンダマン諸島

自発的=義務的な交換[132]
この禁忌があらわしているのは、(結婚する両方の親族に関して)親しみの念であると同時に、畏怖の念であって、そうした二重の念が、相互に一種の債権者でありかつ債務者である者どうしのあいだを満たしているのだ。[134]
自発的=義務的、親しみの念・畏怖の念、債権者・債務者と相対する語が並ぶ。どういうことかと気になった。
結局のところ、それは混ざり合いなのだ。物に霊魂を混ぜ合わせ、霊魂に物を混ぜ合わるのだ。さまざまな生を混ぜ合わせ、そうすると、混ぜ合わされるべき人や物は、その一つひとつがそれぞれの領分の外に出て、互いに混ざり合うのである。それこそがまさしく契約であり交換なのである。[136]

「それこそがまさしく契約であり交換」というところがわからなかった。物に霊魂を混ぜ合わせ贈ることで、贈った相手のところに自分がいるということになるのだろうか。そして、また反対に贈り物がなされることで、こちら側にもあいてが居続けるということなのだろうか。

二 贈り物の交換の原理と理由と強度(メラネシア)

マリノフスキー氏がトロブリアンド諸島で見出した交換=贈与の実践例ほど、明瞭で、完全で、当事者が自覚的におこなっている慣行にお目にかかることは難しかろう。[170] 
クラは、クラ以外のあまたの制度を、そのうちに結晶化させ、凝縮しているにすぎないのだ。[171]
次の引用もそうだけれど、贈り物に関して理由を意識できずに、感覚でやっていたことが説明されてく感じがある。
(クラのパートナーを探しに行くときに)誰もが相手となる部族のなかで最良のパートナーを得ようとする。動機は真剣である。というのも、みながそれぞれに樹立しようとしているクラ・パートナーとの協同関係は、パートナーどうしのあいだにクラン仲間のようなつながりを生み出すからである。だから、選び出すために、誘惑し、眩惑しなくてはならないのだ。位階を考慮しながらではあるけれども、他の人々よりも早く、また他の人々よりもうまく、目的をなしとげなくてはならない。[174]

パートナーになってもらうよう、「前もってこちらから一連の贈り物を送ることで言うなれば買収」[172]したりするそうだ。賄賂のように思ったり、職員募集のイメージにも重なる。賄賂とまでは言わなくとも、良い人に来てもらおうと思えば魅力的なプロジェクトやポジション、給与などの条件を提示していくことになる。
(メラネシアの諸部族は)家庭内経済を超えた経済を持っており、高度に発達した交換の体系をもっているからである。その交換体系は、今からたぶん百年とさかのぼらないつい最近まで、フランスの農民のあいだとか、フランス沿岸の漁村とかでおこなわれていた交換の体系よりも、おそらくはずっと強烈で切迫したリズムでおこなわれる交換の体系である。彼らの経済生活は広い範囲に及んでおり、島々の境界を越え、地域語の境界を越えている。それは一大交易である。彼らのもとでは、贈り物を与え、贈り物を返すことが、はっきりと売買の体系にとってかわっているのである。[193]
読み進めてきた交換というものが「はっきりと売買の体系にとってかわっている」という記述によって、贈与を今までの見方で見てはいけないと意識された。もしも、想像できるとすれば、何か贈与されるということか仕事として1万円貰うということなのかもしれないが、以下のように続く。
クランも家族集団も、自分を他から区別することを知らないし、みずからの諸行為を相互に区別することも知らない。個人であってすら、たとえどんなに影響力をもち、どんなに自覚的な人々であろうとも、自分たちどうしを対置させて考えなくてはならないということを理解する術を知らない[194]
この人たちは、売るという観念も、貸すという観念ももっていないのに、にもかかわらず、売るとか貸すとかいうのと同じ機能を有した、法的・経済的な所々のやりとりを行っているのである。[195]
理解が及ばないところがあるが、中心のなさを感じる。誰か政府なような組織が指導したことではなく、交換する人びと自らが自分たち(私の感覚で行くと私たちとあなたたち)のためになにができるのか考えた成果としてあるように思える。この交換の体系では課税などにしくそう。

三 アメリカ北西部

ある期間を置いたのちに果たすべき義務を人に課すというのは、贈与というものの本来的な性質である。(略)およそ反対給付をなすためには、「時間」が必要なのだ。[210] 
贈与は必然的に信用という観念をともなうのだ。[212]

現金がすでにあれば信用がいらないといことを意識させられる。
まず一方にたんに消費され、日常的にただ分配される物品がある。(略)そして他方に、家族が所有する貴重財がある。[258] 
こうした貴重財の一つひとつはまた、それ自体のうちに物を生みだす能力を宿している。(略)かつて、霊は祖先に、汲めども尽きず物を生みだすさまざまな道具、食料を生みだす道具を与えた。皿も匙もそれを今に再現しており、それら自体が霊だと考えられている。こうして、物はその創造者である霊たちと一体として捉えられるようになる。[276-277]

物を「手放す」と言いたくなるときと、「捨てる」としか言えないときの差は一体なんだろうと考えていた。物を生みだす能力を宿す貴重財であれば「手放す」、一度消費して終わるものであれば「捨てる」と言えるかもしれない。「手放す」というときには、そのものによって引き起こされる物事と手を切る。例えば、スーツを手放すとスーツを着るような仕事をしなくなる。消費するものは、例えば使用後のティッシュを捨てるようなもの。
人が物を与え、物を返すのは、そこにおいて人が互いに「敬意」を与え合い、「敬意」を返し合うからである。今でも言うとおり、「挨拶」を掛け合い、返し合うからである。けれどもそれはまた、何かを与えることにおいて、人が自分自身を与えているからでもある。そして、人が自分自身を与えるのは、人が自分自身を(自分という人を、そしてまた自分の財を)他の人々に「負っている」からなのである。[295]
自分自身を他の人に負っているというのが面白い。あなたがいるから私の存在があるというのは、ある種そうとしか言いようがないけれど、どこかしんどくもある。そして、与える義務があるというのも自分自身を負っている人々への贈り物だと思えば納得がいく。

交換の経済と売買(貨幣)経済の対比が少しあったが、売買の方が気楽な印象がある。「お金があればなんでもできる」というのは非常に陳腐に聞こえるけれど、自分と他人との区別もつかないような人のつながり方、交換の経済を見てくると、そこで立ち回れないときには救いのような言葉なのものかもしれない。
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