【03】『日本・現代・美術』第2回レジュメ

第三章−第四章

2014/11/20 発表:山根澪

本書、第3章第4章では文学や美術が疑いもなく成立する自明さを疑い、その出自の根拠あるいは無根拠さを見ていく。読み進めていると、網野善彦のことを書いた以下の文章を節々で思い出したのでここに引用しました。
歴史学とは、過去を研究することで、現代人である自分を拘束している見えない権力の働きから自由になるための確実な道を開いていくことであると、網野さんは信じていた。[70]中沢新一『僕の叔父さん網野善彦』

第三章 スキゾフレニックな日本の私Ⅰ

・反映のポップと還元のポップ。
60年代におけるアメリカのポップ・アートからしてすでに、消費生活の素朴な反映であると説明されつつも、その枠からあからさまにはみ出す作家も少なくなく、実際にポップな意識のあり方の可能性の中心をしめしたのも、じつはそのようなはみ出し組であった。(略)むしろ彼らは、自分たちの生が拘束されている「いまここ」の成立する条件を提示することにおいてこそ、「ポップ」たりえたのであったし、それはけっして「反映」などではなく、むしろ「還元」と呼ぶべき性質のものだった。[50-51]
・今あるものをそう見えるままに映し出す「反映」ではなく、いまここにあり自明と思っていたものの忘却されたものの根源に迫っていく「還元」というもの。筆者は美術の自明さを解体していくが、まず私が日本的なものと思い込んでいた「オタク」文化も実はアメリカ的なものであると指摘する。
バブル崩壊以後に現れた「還元」のポップは、そうした「暗い動機」にもとづくものである。そのことは、彼らのとりあえずの出発点となるのが、漫画やアニメ、怪獣やテレビゲームといった、「オタク」文化であることにも看て取れる。それらがいずれもアメリカ起源のサブカルチュアであることに注意しよう。(略)アメリカ的なるものにいったん思考を拘束されることなくしては「オタク」すら成立しなかったように、思考をアメリカ的なるものに占領され、しかしその「占領地」の只中にみずからが立っていることを「認識」することによってはじめて、彼らの制作もまた始まったという点において「暗い」のである。[51-52]
・「還元」はどのようになされるのだろうか。
「日本」や「現代」、そして「美術」の自明さ、自然さが、実際にはどのような荒れ地から人工的に構成されたものであるかを、それらを不整合や分裂の集積にまで「還元」しようとするのである。(略)
このようにして彼らは、一定の「質」判断を成立させる起源に存在する、質に回収しえないある不整合や分裂を「日本」や「美術」のなかに見出す。したがって彼らは、一見するとシステムや制度に真っ向から抵抗しようとはしない。そのような「抵抗」が、いまひとつのシステムや制度を捏造してしまうことは、火を見るよりもあきらかだからだ。そうなれば、それ自体、抵抗の決意によって生み出された事後的な産物でしかないシステムや制度は、新たなる「質」判断の体系を成立させることになってしまう。[55]
例えば、お金に縛られるのが嫌だからとお金に真向から抵抗して生まれるのは、「どれだけお金を使わないか」という「質」判断の世界なんだろう。別の道をとろうとするなら「考える練習」でも議論してきたような、自分たちがお金にどのように影響を受けているのか、またお金の起源とは何なのか、という考察がまずは必要となる。そうしたことを突き詰めたときに自明であったはずのお金の何かが崩れ始めたら、会社や組織からはめんどうくさがれ、お金をできるだけ使わないという思想からもまた排除されるのではないか。根源に迫っていくことがそういった意味で分裂症的また暗いと考えると、いつもそのように考えようとした時に感じる抵抗(周囲からも、自分自身からも)を思い出すことができた。

・「アンビギュアス」と「アンビバレント」について。
「あいまい」であることは、日本が西洋近代とアジアの伝統との間に分裂して存在しているという、いわばシステムとシステムとの間に引き裂かれていることを意味する。[58]
ひとたびどちらかを選択することに意を決してしまえば、その「あいまいさ」は一気に他方の徹底的な排除という結果に硬直することになってしまう。[59]

第4章 スキゾフレニックな日本の私Ⅱ

・前回話題になった「土着」という言葉が出てきており抜き出した。「土着」とはなんなんだろうか。
もちろん、国家であると同時に群島であるという支離滅裂が、ほうっておいただけで忘れられようはずもない。そのために必要だったものの一つが、芸術によって担われる「美」というイデオロギー装置であった。この意味では、国家の外的な統一は、国民ひとりひとりの内面のおける趣味性の統一の前提ではない。国民ひとりひとりの内面的統一なくしては、いかなる制度も強制も、最終的には「土着」することがない。[73]
・「忘却に基づく美」という衝撃
美とは忘却に基づくものだと言ってよい。多様の物事が生起する共生状態を忘れること、おのれの内面のとば口に刻まれた深い部分の分裂の傷を忘れること、自分が生まれ、食らい、死ぬ場所が群島であるということを忘れるまさしくそのとき、それら「醜」の要素に代わって「美」が立ち現れるのだ。いずれにせよそれは、トンネルを抜ければそこに、別の人、別の文化、別の言語ではなく、雪国という仮想現実を捏造してしまう「美しい日本の私」を生み出すことになるだろう。[73]
「雪国」は冒頭しか知らないが、確かにその言葉によって想起されるのは美しい、平らなイメージの雪国だった。似たようなイメージのものとして「田舎暮らし」というものも思い浮かべる。きっと様々なものを私は「美しく」捉えてきた。

・「忘却に基づく美」という言葉は私にとってえぐみある言葉であったが、以下の文章は同時になにか楽しさももたらす。
「美しい日本」という内面化を一時的に解き、書きそして読むという、わたしたちが生を営むまさにその現場である物質的次元に、「滅茶苦茶、ばらばら、アンバランス」であるということの豊かさを回復することも不可能ではないのではないか。
 ここで私が「回復」を唱えるのは、もはや「近代」の外部に脱出することが不可能であることによる。[74]
いささか特異な定義となるが、こうした未完の近代にかかわる美のプログラムをデコーディングする作業こそが、「現代」における「日本」の「美術」の課題なのである。[75]
・いびつな楕円を生きる。
ある意味ではわたしたちは、明治期以来ずっと、転形期を生きているともいえる。なぜなら、ティコ・プラーエが中性と近世においてそうであったように、わたしたいちは東洋と西洋とが、あるいは前近代と近代とが、もしくは近代と現代とが、心のなかでふたつの焦点としての役割をはたしており、「空前の精密さをもって観測にしたがい、後進に感謝されるほどの科学的な業績を残すと同時に、熱心な占星術の支持者でもある」ことがなんら矛盾をきたさないような場所に生を享け、そしてそこでいまなお生を営んでいるからだ。[80-81]
・再びニッポンのポップに関して。
彼らが漫画と絵画、芸能と芸術、美術とサブカルチュアというふうなジャンルの間隙に、いかにもいかがわしく作品を成立させようとするのは、そのようなジャンルの壁が近代において歴史的に構築された西欧と違い、すでに触れたように、そのようなジャンルの存立が、みずからの存在が無根拠であることを忘却することによって内面的に定着された、いわば張りぼて的な未完の近代であったことを「体現」するためといったほうがよいだろう。[83]
・「美しい日本」に屈する。
わたしの感性を育んでくれ、考えることと生きることと書くことの喜びを教えてくれたもののすべては、ことごとくが分裂したものどもの放つ輝かしく多様なものの共生にかかわるものであった。それがわたしにとってのポップである以上、わたしは最後の最後で、「美しい日本」に屈することがないことを願う。それを前にしては、美はあまりにも退屈だろうから。そして、ほかでもないあなたが、スキゾフレニックな日本の私であるかぎり。[91]
「美しい日本」とは屈するものであるというのは、文字になってみると衝撃だった。けれど、ここまで読んでくるとなるほどと思えてくる。

コメント(山根)

  • どうして日本は西洋に並びたかったのか、戦争をしてまでそれはしないといけないことだったのかがわからなかった。それは列強へ並ぶという国家としての憧れじゃないかと意見があり、それがとても納得のいくものだった。「私がどうして留学したのか」「どうしてこういう服装を選んでいるのか」という答えも西欧への憧れという言葉で表現するとかなりしっくりくる。以前は何かに自分が憧れていると認識するのがとても嫌だった。憧れを持たざるを得ない自分の弱さを突きつけられるからだろうと思う。国家も憧れるのかと思うと、私がたまたま置かれたこの状況の中で何かに憧れても当然だと思える。むしろその憧れをしっかり見てみたいと思うようになった。 
  • 私がどうしようもなく「美しい日本」を渇望し、探し求めていたことがわかった。疑いもなく日本固有のものが戦前か、もっと前からでも探せば出てくるんじゃないか、そしてそれを探すことがよいことなのだと思っていた。そんなものはなく、なくてもいいんだということをこの本は言っているのではないかという大谷氏の発言が印象的だった。 
  • 日本が「群島」であることについてあまり考えてきたことがなかったが、本書でなんどか触れられており気にかかった。ゼミ内で「あこがれ」に関係しているという話もでたが、その意味をもう少し考えていきたい。 

コメント(鈴木)

  • 自分の生き方を考えるとき、何か根拠を求めたくなる。誰と、どこに暮らすのか。何によって、どの程度収入を得るのか。何を食べて何を消費するのか。何を読み、聞き、喋るのか。選択や判断の根拠に、何かしらの思想や手法、立場、構造、ストーリーに、思考と行動を全て委ねてしまいたくなるような感覚がある。これは本書でいうところの「アムビヴァレント(Aもしくは非A)」な在り方ではないだろうかと思う。「私たちの『いまここ』は根源的に分裂的に規定されている」とすれば、「アムビギュアス(Aかつ非A)」の在り方でよいのだ。 日本という国を「国民国家」として統一しようとしたとき、「美」はイデオロギー装置として使われた。保坂和志の「やつら」という言葉を借りれば、「やつら」によって美はつくられたとも言えるのではないか。
  •  「美しい円でなければ」と思わなくていい。「支離滅裂」で「いびつな楕円」であっていい。そう考えると、少し楽になる感じがある。今いる場所をはっきりと認識すればいいのだ、と思える。 

コメント(大谷)

  • ある国の映画祭で受賞した邦画を「世界が絶賛した」と宣伝する。スポーツでも、地区大会から全国、そして世界へというように、「世界」という言葉に、洗練されたもの、より優れた高次のものというイメージを持っている。僕たち日本人はなぜ外国に憧れるのか、なぜ「世界」に憧れるのか。本書によれば、それは「世界」という言葉が作られた経緯が、「日本が近代化されるためになんとしても必要とされざるをえない」ために、無根拠な上に、「滅茶苦茶、ばらばら、アンバランス」に「整地」された言葉だからという。もしも日本語の「世界」の元になったフランス語を始めとする欧米のそれに、「得体のしれない、雑多な」といったイメージがあるとしたら、日本と「世界」との関わりにおいて、とてつもない大きな意味を持つだろうと思う。 
  • 網野善彦によれば「日本」という言葉自体も、7世紀に現れ、その当時は、現在のような列島全体を示す国家としてではない。とすれば、「日本」そのものもゆらぎ始める。中国から入った文字、律令制などを考えると、日本は「歴史的」に椹木野衣の言う「悪い場所」だったことになる。
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