【08】「日本の歴史をよみなおす」第2回レジュメ

2015年4月29日
作成:小林健司

■第三章 畏怖と賤視

・800年という時間を追いかけて、非人の発生と変遷を追いかけるとてつもない著者の仕事
七世紀後半に律令国家が成立しますと、この国家は全ての人を戸籍に記載する原則を、少なくともその当初は熱心に守ろうとしていますので、たとえば廃人といってもよいような重い病気、身体障害を持つ人は廃疾、非常に思い病気の人は篤疾として、戸籍に他の人びとと一緒に記載しています。 [83] 
また、不浪人、逃亡して浮浪してしまう人たちに対しても、この時期の国家は熱心にこれを追求して、捕まえた上で戸籍にもれなく載せようとしています。[83] 
しかし、このように建前上、全ての人民を戸籍に載せるという制度であった律令国家は、八世紀には動揺しはじめます。国家の規制力が弱まって、浮浪、逃亡する人がたくさん出てきます。そのなかで、重病を負った人、あるいは身寄りがまったくなくて、捨て子同然のような、不幸な状態になった人びとが、政治の上でも大きな問題になってくるのです。こうした人びとの救済のために、この国家は悲田院、施薬院という施設をつくります。[86] 
しかし、九世紀の終わりごろになると、律令国家の組織がすっかり弛緩したため、全般的な財政難になり、悲田院も予算が不足してきます。これはどこの官庁でも同じような状況で、官庁に属していた手工業者を含むさまざまな職能民は、みなそれぞれ独自に集団をつくって動き出さざるを得なくなっていきます。逆の見方をすれば、職能民たちが国家の規制から離れて、自由で独自な集団をつくりはじめたということができるかもしれません。[88]
その後、十世紀から十一世紀になりますと、地域の国衛をふくめ、国家の手で重病人、捨て子、身寄りの無い人を支えることは、まったく不可能な状態になってしまいます。[89-90] 
このように伝染するケガレに対する畏怖が、京都の貴族たちの間にひろがってくるのとほぼ時期を同じくして、非人といわれる集団が史料の上にはっきりと出てきます。[92] 
このように、鎌倉時代の末、十三世紀後半から十四世紀にかけて、とくに、「穢れ」「悪」さらに具体的には、悪党・非人などの問題をめぐって、仏教の諸宗派の間で緊張した思想的な対立があったのですが、しかし十五世紀にはいるころには非人、河原者などの人びとを「穢多」とよぶことがより広く行われるようになり、「清目」ということばも、賤視された存在をさす差別語になっています。
これらの抜き書きの間には、もちろん、史料の検証などがあるが、こうして並べて見ると、とてつもなく壮大なことを証明するために、途方も無い検証作業をしていることを実感する。小さな意思を積み上げてできた石垣を連想した。

・神や仏、穢れと一緒に暮らす社会の様子
具体的には天皇が穢れると、いっさいの行事は行えず、世の中の政治は動かなくなってしまいます。このような「天下触穢」という事態は、日本列島の社会にはかなり古くからあったと思います。 [91] 
乞食に邪けんなあつかいをすると仏罰が下るとされていました。[100]
当時の人びとは自然に大きな変更を加えることにきわめて慎重であり、しかもこれに対しては、ある種の畏怖感を抱いていたと思われます。[105]
そこに暮らしていれば、もちろんとても厳しい環境ではあったのだろうが、子どもの遊びのルールのようなものが、そこで生きる人に根付いている様子が、おとぎ話を聞くような気になってくる。自然とのつながりを強烈に意識した古代宗教のようなものを社会に取り入れつつ、物質的な発展もしていく様子が、とても特殊な状態のように感じる。

・悪党、非人と「鎌倉新仏教」
世の中からはむしろ山賊・海賊と扱われた悪党たち自身が一遍を擁護し、その布教を積極的に支持したというわけですが、当時「悪党」といわれた集団は、童形の人びとや非人、さらには博奕打と思うので、一遍の布教はまさしく、悪党・童姿の人びとや非人に支えられながらおこわれていったことを、この絵は全体として描いているといってよいと思います。[133]
このように浄土宗や一向宗、時宗にせよ、日蓮宗にせよ、また禅宗や律宗にせよ、いわゆる「鎌倉新仏教」は、悪人、非人、女性にかかわる悪、穢れの問題に、それぞれ、それなりに正面から取り組もうとした宗教だといってよいと思います。[136]
フェンスワークスでの活動と重ねて見ると面白い。現代の悪人、非人はどういった人たちになるのだろうか。世の中で存在が認められていない人だとすると、働けない人とか、所属や収入が無い人たちになるのか。

■第四章 女性をめぐって

・日本の社会に取り入れられた男性性と女性性
表の漢字の世界、公的な場は男性なのです。しかし、平仮名の世界、私的な裏の世界での女性の活動も決して小さいものではないのです。[173]
その背景には父系制が確立していない双系的な社会に、非常に強固な父系の建前を持った制度が接合したという事態があった。少し極端ないい方をすると、まだ未開の要素を残し、女性の社会的地位も低くない社会に、文明的家父長的な制度が接合したことによって生じた、ある意味では希有の条件が、このような女流文学の輩出という、おそらく世界でもまれに見る現象を生み出す結果になったのではないかと思うのです。[173-174]
古代宗教的な神道や、その頂点の天皇というものを配置しながら、「表」に漢字や律令制などの「文明」を取り入れ、さらに、女性を含む「裏」の大きな力も残した社会が十四世紀ごろまでは存在していたと考えると、無縁の原理と有縁の原理が見事に両立していた社会ともいえる。



資料・発表:大谷隆

■第三章 畏怖と賤視

二種類の差別
古代における差別の問題を身分の上で考えると、二種類あって、ひとつは今の奴隷と良民との区別、もうひとつは、のちに中世に出てくるような、人間の力を超えた聖なるものに属する人びとに対する区別があった[85]
山本幸司氏によると「ケガレ」とは、
ケガレとは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる畏れ、不安と結びついている[90]
「穢れ」は、甲乙丙丁と伝染し、また内容によって軽重がある。
ただおもしろいことに、河原や道のような開かれた場所では、ケガレは伝染しない[92]
『無縁・公界・楽』の「エンガチョ」「スイライカンジョー」に似た感覚。それを社会全体で大まじめにやっている。
自然の力が人間の力をはるかにこえる恐るべき力を持っており、ケガレはそれにつながっていた[100]
一四世紀ごろに起こった変化。

(聖から賤という)このような社会的なものの見方の変化は、文字や貨幣などの問題と同じように、日本の社会において、人間と自然のかかわり方が大きく変化してきたこととかかわりがあると思うので、自然がより明らかに人びとの目に見えてきたが故に、このようなケガレに対する畏れが消えていったのですが、それにともなって、ケガレを清める仕事に携わる人びとに対する忌避、差別感、賤視の方向が表に現れてくるようになったのだと思います。
しかし、ことはそう簡単ではありません。この時期、十三世紀後半ごろを頂点とするその前後の時期は、日本の社会において「悪」とは何か、あるいは非人、女性の賤視の問題にもかかわるケガレを、いかに考えるべきかについて、かなりきびしい思想的な緊張のあった時期だったように思うのです。
「穢れ多き」人びとを賤しめ、賤視し、「悪人」として排除しようとする動向が、一方から強烈に主張されるのに対し、むしろ、「ケガレ」にたずさわる人びとも、仏の力によって救われる、非人も女性も救済される、という主張、さらには親鸞のように、善人すら往生できるのだから、いわんや悪人が往生できないはずはないという「悪人正機」の主張、いわば「悪人」といわれる人々、あるいはケガレにたずさわる人びとのなかにこそ人間らしい魂があるということを主張する動きが他方にはっきり出てきます。
そして、その両者の間のきびしい緊張関係と対立が、十三世紀後半を中心としてその前後に展開したと思われます。[120-121]
十四世紀以前の「穢れ」は、前にもふれてきましたが、ある種の畏怖、畏れをともなっていたと思いますが、十四世紀のころ、人間と自然との関わり方に大きな変化があり、社会がいわばより「文明化」してくる、それとともに「穢れ」に対する畏怖感はうしろに退いて、むしろ「汚穢」、きたなく、よごれたもの、忌避すべきものとする、現在の常識的な穢れにちかい感覚に変わってくると思います。[141]
この鋭く厳しい緊張関係、自然と文明のイメージをどこまで視れるか。

■第四章 女性をめぐって

日本の女性をめぐる状況の特異性がどこに起因するかという視点でみると、
夫だけが離縁状を書くという形、建前が行われているところに、日本の社会の大きな問題があることは間違いないと思うのですが、日本の社会の実態は、法的な制度が示している形とは、だいぶちがうということを、われわれは十分に考えておく必要があると思います。[152-153]
この「日本の社会の大きな問題」は、織豊から江戸時代による新宗教への大弾圧によるもの[76]で、
前にも[76]ふれましたように、人びとの日常の生活まで規制するだけの力を持った宗教が、日本の社会ではついに影響力を持ち得なかったということと、この問題(堕胎などキリスト教の倫理観に照らした問題)とは非常に深いかかわりがあると思われます。[161]
戦国時代から、江戸時代までの社会における女性のあり方は、これまでの常識的な見方とずいぶんちがうということは間違いないと思います。従来この時代は家父長制が確立しており、女性は無権利できびしく抑圧されていたと考えられていたのですが、実態はかなりちがっていたといわなくてはなりません。さらにさかのぼって十四世紀以前の女性のあり方を史料にそくして見てみますと、女性たちは江戸時代よりもはるかに広い社会的な活動をしていたことがはっきりわかります。[162-163]
すこし極端ないい方をすると、まだ未開の要素を残し、女性の社会的地位もけして低くない社会に、文明的、家父長的な制度が接合したことによって生じた、ある意味では希有な条件が、このような女流文学の輩出という、おそらく世界でもまれに見る現象を生み出す結果になったのではないかと思うのです。[181]
「未開の要素」が残っているところに大陸から「文明的」なものが入ってくるというのは、文字とそれに伴う行政の文書主義でも生じていたし、一旦独自の貨幣をもったにもかかわらず呪術的存在としては存在したものの貨幣の「文明的」使用まではたどり着かなかったことも同様な現象ではないか。この「未開な要素」が残るところに外部から「文明的」なものが入り接合するというのが、日本という場所を特徴付けているように思われる。同様のことを、椹木野衣は『日本・現代・美術』で「悪い場所」と称している。

「若い人たちにむけて送り出してみ」た本書は『無縁・公界・楽』(他の歴史家からの批判に耐えなければならない論文に近い本)よりもより踏み込んだ内容と表現になっている。「天皇がなぜ滅びなかったか」「なぜ平安鎌倉期にのみ優れた宗教家を多数輩出したか」という網野の生涯の問いに対して、直接的に答えようとしている印象。
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