【08】『日本の歴史をよみなおす』第1回レジュメ

2015年4月29日作成:小林健司 

■第一章 文字について

・普及していた平仮名が公的文書で使われなかった疑問
文字の普及はもっぱら平仮名の普及という形で進行していったことは明らかです。[25]

公家はもちろんですが、武家の場合でも、最初は多少それとは違う匂いが会って、平仮名まじりの公文書が現れてもいいような状況があったと思いますけれども、基本的にはやはり、公的な文書は漢字で書くということが確定していきます。[32]
普及していたのは平仮名なのに、なぜ公文書が漢字だったのか。女性と平仮名のつながりについても書かれているので、おそらく、官職の男性が無縁性から転じた穢れなどを避ける要因もあったのではないかと思うが、すっきりとしない感覚も残る。譲状について書かれている33ページ後半に、周囲への理解が必要という理由で平仮名を使用していた例も挙げられているが、公的な文章は周囲への理解が必要ないもの、もしくは漢字を読み解く能力のあるもの同士で理解し合うものとされていたということか。

・文字の力を国家の体制に取り入れる
江戸時代は、このような文字の庶民への普及を前提として、国家体制ができ上がっています。江戸幕府は当初から、町や村人たちの中に文字が使える人がいることを前提にした体制だといってよいと思います。この国家はそのような点で、おそらく世界の中でも非常に特異な国家だと思いますけれども、それはこのような文字の人民への普及率の高さに応ずる問題だと思うのです。[37]
(律令国家の成立について)つまりこの国家は、それまで口頭で行われていた場合もあった、すべての行政を、文書で行うことにしたわけで、この国家はこうした文書主義をきわめて厳格に実施します。ですからこの国家で役人として多少とも関わりを持とうと思えば、かならず文字を勉強しなくてはならない。このように、たんに上から強制されたというだけではなくて、この国家の成立が下からの文字への自発性を呼び起こしていくわけです。[40]
試みに、同年代の領主から来た年貢の割付状と、百姓同士の取り交わした売買証文とをある年代を区切って並べたところ、書式の変化は明らかに領主側から起こっていることが明らかになったと報告しています。[44]
文書主義を取り入れることによって、「下」からの文字への自発性が起こり、書式の変化などが柔軟に迅速に伝わっていく体制になっていったというのは、国家管理の上で重要なことだろう。

西洋では全く別で、人民には文字を普及させない国家管理をしていると聞いたことがあるが、江戸幕府がそういった文字と人民の関わりを前提に成立しているというのは、ある種、文字の持っている力を最大限に取り入れた国家のような印象を受けた。そう言った点を「特異」と言っているのだろうか。

■第二章 貨幣と商業・金融

・文字と貨幣の扱い方、扱われ方の違いの不思議
平安後期以降の支配者は、銭を鋳造しようという意思を示していない。後醍醐天皇という特異な天皇が、実現しなかったけれども、銭を鋳造し、紙幣を造ろうとしたのを除くと、王朝も幕府もそういう発想を持っていないのです。[56]
中国で支配者が貨幣を発行することが、支配者にとって重要だとされていたと聞いたことがある、第一章で、結果的にということではあると思うが、独自の文字をつくるなどして文字の力を絶妙な形で社会に取り入れた国家や社会の話を聞いた後なので、意思を示していなくて、そういう発想すら持っていない、というのが不思議に思う。

・神の世界に属している、貨幣、金融、交易
このように市の立つ場は独特な意味を持った場なのですが、そうして開かれた市場は、日常の世界とは違い、聖なる世界、神の世界につながる場であると考えられていました。[58-59] 
このように金融行為が神のものの貸与、農業生産を媒介とした神への返礼、という形で成立したことを確認しておきたいと思います。[61] 
ともあれこのように人間の力を超えた神仏に捧げられたものを、人間の世界で使った場合、神仏に対するお礼として、利息をつけて返すという形で金融が行われていたわけです。[61] 

前述した疑問への回答として、これらのことから、日本の中で、貨幣や金融を扱う場合には、神とのつながりが前提となっているので、貨幣はどこかから「いただく」という形の方が定着しやすかったのではいかという仮設が浮かんだ。

・神や仏がいなくなっていく社会の風景
このように、十四世紀の南北朝の動乱の中で、日本の社会における権威の構造が非常に大きく変わってきたと考えられます。それにともない、これまで、神仏と直接つながりを持っていることを根拠に、一般の平民とは異なる聖別された身分という意識を持っていた職人たちも、もはや古い神や仏に頼っていたのでは、とうてい自分たちの特権を保持していくことができなくなってきます。ですから十五世紀になると、商人や手工業者たちは守護大名のような、世俗的な権力に特権の保証を求めていくようになります。[73-74]
それまで、目に見えないものを社会の中に含んでいた世界が、一気に見えないものを「ない」としていくことで、力を失っていく人たちと、力を得ていく人たちの姿が、いろいろな物語に重なる。ミヒャエル・エンデの「モモ」や「果てしない物語」や、宮崎駿の監督作品などが想起された。
天皇が十四世紀の動乱後、まったく権力を失い、権威もおおいに低下しながら、なぜ生き延びられたのかという問題と、日本の社会に、このような一神教的な宗教がなぜ根付かなかったのかという問題とは、多分その根は同じなのではないかと思うのです。[79]
この二つの根が同じという意味が分からない。





資料・発表:大谷隆

■はじめに

網野善彦が見た日本の「大きな転換期」である「十四世紀」と「現在」、
現在の転換期と同じような大きな転換が南北朝動乱期、十四世紀に起こったと考えられるので、この転換期の意味を現在の新しい転換期にあたってもう一度考えなおしてみることは、これからの人間の進む道を考えるうえでも、また日本の文化・社会の問題を考えるうえでも、なにか意味はあるのではないかと思うのです。[14]

■第一章 文字について

日本の社会における文字。前提として、
江戸時代後期の識字率は五〇〜六〇%まであったという人もいますが、平均して四〇%ぐらいまでは字を識っていたといわれています。特に都会—町の識字率が非常に高かった[21]
日本の社会の場合、文字社会、文書の世界は非常に均質度が高い。これにたいして、無文字の社会、口頭の世界は、われわれが考えているよりもはるかに多様だということなのです。[24]
一四世紀に起こった文字に関する異変。
だいたい十三世紀後半ごろから、文書全体の二〇%ぐらいが平仮名、片仮名まじりの文書で占められるようになってきます。南北朝期はそう変わりないのですが、室町時代——十五世紀になりますと、このパーセンテージは俄然跳ね上がり、五〇%から六〇〜七〇%ぐらいまでが仮名まじりの文書で占められるという状態になってきます。[24]
ところが、このような仮名まじり文書の数の増加は、主として平仮名まじりの文書の増加であって、片仮名まじりの文書は、一貫して現在残っている文書のなかの一%から二%ぐらいしか見られないのです。[25]
片仮名とは、

(片仮名は)基本的には、口頭で語られることばを表現する場合に使われていたと言えます。しかも口頭で語られることばが文書にされる場合は、中世前期ではしばしば神仏とかかわりを持つ場合が多いのです。[25] 
(片仮名で書かれる)落書は落とし書きですが、“落す”という行為によって、人の手から落とされたものは、(略)神仏のものになってしまう。[27] 
口頭の世界と密着した文字である片仮名は、「書」にはならない文字です。しかし平仮名は最初から、読みかつ書く文字としての用途で使われてきたと思います。読みかつ書く文字としての平仮名が普及して、口頭の世界と密着した文字である片仮名が少数派にとどまったというところに、日本の文字の普及の仕方にかかわる大きな問題があるのではないかと思います。[39]
口語体、文語体、言文一致体などにもつながるか?

文字に対する意識の変化、
非常に重要な問題だと思いますのは、鎌倉時代までの文書は見ていて非常に気持ちがよいというか、笠松宏至さんのことばをかりると「みやびた」ところがある。(略)ところが南北朝をこえて室町時代になりますと、文書は極めて数が多くなるのですが、鎌倉時代以前に比べると文字に品がなくなります。しかも、大変に読みづらくなる。(略)鎌倉時代までの人々は、文字に対してある畏敬の感情をもっていたと思うので、それが文字そのものの美しさにつながっていたのだと考えられますが、そうした意識はなお生きていたとしても、文字を使う人にとって、それはきわめて実用的なものになってきた。[37]
国家と文字、
この国家は、それまで口頭で行われていた場合もあった、すべての行政を、文書で行うことにしたわけで、この国家はこうした文書主義をきわめて厳格に実施します。ですからこの国家で役人として多少ともかかわりを持とうと思えば、かならず文字を勉強しなくてはならない。このように、たんに上から強制されたというだけではなくて、この国家の成立が下からの文字への自発性をよびおこしていくわけです。[40]
文書の世界での均質性は、明らかに上からかぶさってくる国家の力があり、それに対応しようとする下の姿勢が一方にある。しかもそうした姿勢が、古代以来きわめて根深く日本の社会にあるということを考えておく必要があると思います。[45]
網野は指摘する。十四世紀前後に起こった、文字の普及、国家の文書主義、結果としての識字率の高さ、それらは江戸時代を経て現代にも響く。忖度文化と識字率の高さの関係。

■第二章 貨幣と商業・金融

十四世紀に起こったこと。
十四世紀の南北朝の動乱の中で、日本の社会における権威の構造が非常に大きく変わってきたと考えられます。それにともない、これまで、神仏と直接つながりをもっていることを根拠に、一般の平民とは異なる聖別された身分という意識をもっていた職人たちも、もはや古い神や仏に頼っていたのでは、とうてい自分たちの特権を保持していくことができなくなっていきます。[74]
『もののけ姫』における「神殺し」はこの「古い神や仏に頼れない」ことを表している。
鎌倉新仏教について、
「無縁所」は金融と勧進で寺を経営しているわけです。祠堂銭の貸し付けによる金融、事実上、商業的な行為となっている勧進のように、土地、所領の経営ではなく、むしろ「資本主義」的な商業や金融によって寺を支えたのが、「無縁所」といわれる寺の特徴だと思うのです。それが鎌倉新仏教系に多いという事実も、非常に大きい問題だと思いますが、とくに真宗の場合には、寺内町と言って、寺、道場の周辺を区画してこれを「聖地」とし、そこに商工業者を集めるというかたちで町を作っています。[77]

ここが「なぜ鎌倉時代にのみ優れた宗教家を多数輩出したのか」への答えであり、網野は、「鎌倉新仏教が経済的に強力になり得たから。」と言いたいのではないか。貨幣・商工業という無縁の力で。しかし、織田信長、豊臣秀吉、江戸幕府による弾圧の結果、
キリスト教を含む新しい宗教(鎌倉新仏教)は、結局、十六世紀から十七世紀にかけての織田信長、豊臣秀吉、さらに江戸幕府による血みどろの大弾圧によって、独自な力を持つことができないようになってしまいます。(略)
天皇が十四世紀の動乱後、まったく権力を失い、権威もおおいに低下しながら、なぜ生き延びられたのかという問題と、日本の社会に、このような一神教的な宗教がなぜ根付かなかったのかという問題とは、たぶんその根は同じなのではないかと思うのです。そしてこのように宗教が弾圧され、社会的に独自な教団としての力を持ち得なくなったということは、その後の日本の社会のおける商業、金融、職人の技術のあり方とも深い関わりを持っていると思います。(略)商業、交易、金融という行為そのもの、あるいはそれにたずさわる人々の社会的な地位の低下と、宗教が弾圧されてしまったということとは、不可分なかかわりをもっていると考えられますが、それが近代以降の日本の資本主義のあり方にどのようにかかわってくるかというところまで見通す必要がある。[79]
かなり大きな話をしようとしている。もし弾圧がなければどうなるのか。なぜ弾圧されたのか。戦国大名と「無縁」との戦い。『無縁・公界・楽』での強力になりすぎた「無縁」の「有縁」化と関係有り?天皇が生き延びた理由は?
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