【01】パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』を読んで

山根美緒

『被抑圧者の教育学』を読み始めたとき、何かについて学ぶという感覚を持っていた。私は「被抑圧者」ではないし、「(学校)教育」に携わることもない。自分事ではないと思っていた。

 しかし、読み進めるにつれてこの本はブラジルの貧しい農民を被抑圧者として書いてはいるが、私自身や今まさに直面している状況について考えていける手引であることがわかってきた。

 私が「考える主体であること」や「世界を引き受けること」をやめてしまった、被抑圧者であったり、その裏返しとしての抑圧者であると思うようになった。自分の言動を振り返ると、何かしたときにこう行動したのは親の影響せいだ(から私はそれを変えることができない)と考えたり、何かよくないことが起こっていても仕方ない(のでやっぱり状況は変えられない)と諦めるなど、自分以外の理由を引き合いに出して、人や状況に関与できないと決めてかかっていた。

(被抑圧者は)そこにある抑圧的な現状を運命であるかのようにうけいれてしまう[59]
とフレイレは書いているが、私も「誰々のせい」「仕方ない」という言い方をしているが、自分ではどうにもできない「運命」だということにして周りの状況に関与するのをやめている。

 そうやって、自らの被抑圧的部分を見い出した時点で既に状況に対する認識が変わっていた。自分の行動や世界に引き受けていくにはどう考えていけばいいのかどう行動すればいいのか、と考え始めた。

 フレイレは世界を共に引き受けていく仲間を作っていくために、「対話」の重要性を強調する。そして、この本を読み始めるたころに「正直に話すこと」を実践し始めた。以前は本心を隠して話していることがちょくちょくあった。

 正直に話さないのに話しているときというのは、頭のなかで言葉となって出てきたことに常識のフィルターをかけて、内容を変えて話すということだ。そうなってしまうと私と誰かが話しているのではなく常識と誰かが会話しているだけになってしまう。

 ただ正直に話すということだけが、これほど大変で疲れるとは思っていなかったが、自分が剥き出しになり、相手からも本当の言葉をもらい、そのことにより行動を変えるということが起こり始めたように思う。誰かと話しができているという実感を持つことができた。フレイレの言葉を借りると「自分の思いを議論できること、自らの世界観をもてるということ、自分の提案を自由に表して仲間と共に議論できるということ」[197]ができているという実感を以前より持てることが増えた。

 本書を読むことで、自分の被抑圧的側面、抑圧的側面を知ることになり、行動を起こしはじめた。本書を読むという経験は、事前に想定していた知識の蓄積ではなく、書いてあることを実践すること自体にあると思う。
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