【01】『被抑圧者の教育学ー新訳』第2回レジュメ

第二章
2014/07/04 発表:大谷隆

訳者による「あとがき」にもあるが、本書の文章は同じことが何度も少しずつ違う表現で「らせん状(314)」に書かれている。核となる主題に少しずつ肉付けしていくようになっている。ここでは螺旋をほどいて読み解いてみる。

第二章で書かれていることは2つ

1)銀行型教育の特徴とそれがどのように抑圧に使われるか
2)銀行型教育に対する問題解決型教育のあり方のエッセンス

銀行型教育の特徴とそれがどのように抑圧に使われるか

まず、銀行型教育がいかに抑圧のツールとなるのかを見る。銀行型教育では、教師と生徒の関係は、持つ者と持たざる者となり、教育は「施される」が、それがもたらすものは、
知識が与えられるもの、施されるもの、である、ということ自体が、抑圧のイデオロギーを広くしらしめるための基盤である。【81】
知識が与えられる前の生徒は無知であるが故に、

無知を疎外する教師は揺らぐことなき地位を維持し続ける。教師はいつも知っていて、生徒は常に何も知らない。知る者と知らない者の地位の固定は、教育とは探求プロセスそのものである、という姿勢を否定する。【81】

この「地位の固定」が抑圧である。ここに温情主義的な社会行動が加わることで、より強固な抑圧をもたらす。

「銀行型教育」と温情主義的な社会行動とが一緒になって、抑圧されている人たちは「援助されるべき人」という同情を引くようなレッテルを貼られる。【84】

仮に、温情主義的な社会行動を行う者が教師になったとすると、その「良きパターナリズム」によって抑圧が発生することになる。では、銀行型教育がどのように世界と人間を捉えているか。

「銀行型教育」の発想では、人間は適応しやすく御しやすいものである、と認識されることはまったく驚くに当たらない。知識を詰め込めば詰め込むだけ、生徒は自分自身が主体となって世界に関わり、変革していくという批判的な意識を持つことができなくなっていく。【83】

人間そのものを「意識を持った身体」というふうにはとらえない。意識はまるで人間の「内部」で区分されているようなもので、機械的に分けられた状態で、受動的に世界に開かれ、機械的に区分された一つ一つの世界の現実というもので「埋めて」いくようなそういうイメージである。【90】

人間は世界と切り離され、その入口にたって、断片化した世界の一部を自分の内部にカテゴライズして埋めていく。それは「宿命論的な認識を強調して人間をその状況に止めようとする【112】」ことで現状維持につながる。世界と人間が固定的で変化のないものとして認識される。(フロムの言う「死するものへの偏愛=ネクロフィリア【94】」)。

銀行型教育に対する問題解決型教育のエッセンス

本章では銀行型教育の逆として問題解決型教育のエッセンスが抽象的ではあるが示されている。まず意識について、銀行型教育では「中身がうつろであったり、機械的に区分けされていたりする意識」ではなく、問題解決型教育は

「からだそのものが意識である」というような人間、つまり世界を指向するような意識、そういったものを基礎とする教育であるべきだ。知識の入れ物としての人間ではなく、世界との関わりのうちに問題の解決を模索するようなもの【99】

となる。そのために教育者に求められるものは「知識の伝達」にとどまらない。

教育される者との対話を通じて自らが教育しながら教育される。それは双方にとってお互いが主体となるやり方であり、成長の経験となるようなもの【102】

どんな内容であっても教師が生徒に提示する内容を、教師自らが「熟考し誇りに思える」対象として捉えているなら、生徒が「熟考」することによって、以前に「熟考」したものを「さらに熟考」することになる。【104】

教師が世界のうちにあり、世界とともにあるという問題の立て方をすればするほど、自らが世界から挑戦を受けていると感じることになる。挑まれれば挑まれるほどその挑戦の答えを否応なしに迫られていく。

そうして教師も生徒も「コミットメントを持った人間」「世界としっかりとかかわる自分」【105】となっていく。銀行型教育で静的、宿命的と捉えられていた世界と人間に関する認識は、

歴史的に見て未完成であるこの現実と共にある人間もまた未完成で未確定である存在と認識される【110】

人間は他の動物と異なり、未完成で未確定であるからこそ絶え間ない生成の過程にある(バイオフィリア=生きるものへの愛)。

生徒としての被抑圧者と子供との違い

問題解決型教育における生徒は、対話を通じて世界とかかわる「主体」が認められることになる。(従来の)子供に対する教育との違いは、小学校入学前の6歳の子供に「学ぶ主体」を求めることはできない。教育されることで結果として主体が形成される。
被抑圧者の教育と従来の教育の違いは、生徒の「主体」性ではないだろうか。

コメント(大谷)

ここでいう主体とは何か? 例えばコンビニの店員には主体はない。何かが生じた時に「自らの声をあげることができる」のが主体。
<デジタル大辞泉>主体 1自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。
学びの主体については芦田宏直氏のブログも参考に。
就職活動などで「コミュニケーション能力」を求められることが多いが、その意味は「気の利いたことを言う」能力にすぎない。本当のコミュニケーションはある物事に対する思いの深さである。その深さを持ち、お互いに主体を認め合う関係が「対話」であるのか。 また、現代の日本における「抑圧」の一つとして「自己責任」の強要がある。著しく悪い労働条件で働かされていた若者も相談機関へ相談する際には「自分の能力がないためにこうなった」と述べる。

コメント(山根)

フレイレが何歳くらいの人をこの「教育」の対象と考えているのかわからないが、2章までに書かれたエピソードなどからは大人に対する教育のように思える。また、「教育」という言葉そのものが読み進めて行くうちに、今まで思っていた学校教育などとは違うものであり、人との関わりの持ち方の根本に迫っている。
問題解決型教育では、自らの行動により目の前の人が変わり、世界が変わると信じられる人間を育てることができる。銀行型教育では、人は自らを世界の傍観者もしくは消費者(行動に責任持ち人との関わりをもつことができない人)としか位置づけることができない。
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