【01】『被抑圧者の教育学ー新訳』第1回レジュメ

序章、第一章
2014/06/20 発表:高向伴博

◆被抑圧者の教育学
→自らの解放のための戦いを目指す人びとのための教育学[42]

【効果】
自らが抑圧されていると知っている、抑圧されている状態をはっきり意識している、批判的にとらえはじめた抑圧されている、人たちが主体的になっていく。[43]

序章

意識化について

⇛人びとを「破壊的な狂信」にかりたてるのは、意識化ではない。意識化はむしろ逆に、人びとが主体として歴史のプロセスに関わっていくことを可能にし、狂信主義を避けて、一人ひとりを自己肯定に向かわせる。[9]
・・・・→「考える」どうすればいいか?ということを考えることが次につながる。

・批判的な意見
⇛意識化することは危険という意見[8]
 批判的意識を持つことは無秩序につながるのではないか?[8]

⇛肯定的な意見
 「私は何も知らなかったことがわかった。そして、それがわかったからこそ批判的になりはじめた。だからといって、自分がやたら狂信的になったり、攻撃的になったりしているわけではない」

「自分が今置かれている不当な状況を意識できたからといって、その人が『破壊的な狂信』や『自分たちのいるこの世界を破壊していいという感情』に押し流されるわけではない」[8]

・ヘーゲル:危険な自由よりも安寧を求める[10]

1章

・本書の中心テーマ:humanization(人間化、人間らしくなる)⇛つまり、エンパワメントすること。
・人間の使命:より全き人間であろうとすること[22]
・人間化(自己肯定感が高状態)/非人間化(自己肯定感が低い状態)とう問題
⇛非人間化は、人間性を奪われた者のみにみられるのではなく、形を変えて、人間性を奪っている側にも見られる。[22]

・対象:被抑圧者が抑圧と抑圧の原因について、省察すること。(〘名〙(スル)自分自身をかえりみて、そのよしあしを考えること。「自らの言動を—する」)[25]
・なんとか抑圧者のようになろう、そうなりたい、そうなるんだ、という二重性のうちに生きている間は自らを解放することはできない。[26]
⇛つまり、能力主義・競争主義社会で勝てない者・うまく適応できない者が自己肯定感を高める場合に、既存秩序から離れる視点を持つことが必要。言い換えると、発想を転換すること。

・しかし、「長く抑圧されてきた状況では、被抑圧者は自分の状況を対象化して、自分を客観的に外から見る、というようなやり方で状況を凝視できない」[27]
・さらに、「抑圧者になった農民が、昔の仲間に対して元の地主よりもずっと過酷な抑圧者になるケースがお多い」[28]
⇛抑圧/非抑圧という権力関係の維持、差別構造の再生産

・抑圧/非抑圧という権力関係の維持の基礎的要素

1)規範
⇛規範とは、ある人の意識の、他者への強制[29]
→抑圧者の意識を自らのものとして宿したような意識のありようを作っていく。[29]
→よって、抑圧された者の振る舞いは、規範に従ったような振る舞いを形成する。[29]
→そして、抑圧する者の影を内面化し、その決まりに従う抑圧された者は、自由を恐れるっようになる。[29]

・自由とは、自由であるための自由はだれにもない。自由がないから自由のために戦う必要がある。[29]

→常に自由を探求していく姿勢というものが、常によりよき存在であろうとする人間にとって欠くべかざることである。[30]
→よって、抑圧状況を超えていくことが必要。そのためには、批判的な再認識をすること、つまりそのような状況になっている理由を考えることであり、人間としてよりよき存在であろうとすることでもある。[30]

2)連帯

⇛依存している状態を維持しながら、ちょっと財政的に援助ではない。⇛かわいそう、援助してあげるではない。
真の連帯とは、連帯する相手の状況を自ら引き受ける[34]

3)所有[53]

⇛土地、財産、生産物、人間自体、時間、
⇛すべてのものがカネで買えるという確信
⇛利益を上げることが最も重要な目的となる
⇛持てる階級

4)人間化

⇛抑圧者と被抑圧者の間の矛盾を越えていくための戦い
⇛食べるための自由の獲得だけではだめ。[72]

論点
能力主義で勝てない者、うまく適応できない者が、今の社会で自己肯定的に生き延びるためのアイデアは?

コメント(大谷)

本書での「戦い」は抑圧者と被抑圧者の間で行われるわけではなく、本書と良きパターナリズムとの間にある。抑圧者と被抑圧者は同じ規範を生きていて、その規範は良きパターナリズムと悪いパターナリズムが混在している。悪いものを批判するのは簡単だが、いかにして良いものを批判するのかが本書のポイントではないか。
教育が、持つものからもたざるものへの移動であるかぎりは、論点の「能力主義で勝てない者」に対して、どうやって能力をもたせるかが本質になるが、「能力を持たないまま、いかに生きるか」ということであれば、それは従来の教育の概念から外れているのではないか。「教育」と呼ぶことができるのか。
「意識化」についての類似例。「被差別部落教育をしないほうが良い。知らなければ意識しないですむ」という意見が多いが、意識化には「知った上でどう行動するのか」ということまでが含まれている。
「真の連帯とは、連帯する相手の状況を自ら引き受ける(p34)」について。差別に対して「わたしは気にしない」という態度は連帯ではない。「ともに戦う」という態度が連帯。

コメント(高向)

【追加資料】
・大辞泉によると教育とは、「ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。知識の啓発、技能の教授、人間性の涵養(かんよう)などを図り、その人のもつ能力を伸ばそうと試みること」。
・教育基本法:文部科学HP      http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/kakutei/06121913/06121913/001.pdf
第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

つまり、教育とは大谷氏が指摘しているように、持つものから持たないものへの移動が伴う、行為であるといえる。 学校教育とは、専門家から素人へ行う知識、価値観、行動規範等を教育する機関として位置づけられている点から、パターナリズムであるといえる。
 本書のテーマである、「被抑圧者の教育学」とは、パターナリズムからの解放を目指すことがポイントになるのではないか?
 とすれば、どのような教育がパターナリズムの解放なのか?そもそもそのような教育が可能なのか?教育という文脈では語れないのではないか?という疑問が生じる。
個人のエンパワメントに重点を置いた教育を考える上、パターナリズム的でない方向の教育は考える必要があるのではないか。
意識化について、高校生に労働者の権利教育は必要ないという意見に対して、「それを知った上でどう行動するか」という次の問いが立てられる。
よって、意識化とは、それを知った上でどう行動するかというところまでを含んだ概念であるといえる。
能力主義で勝てない者、うまく適応できない者が、今の社会で自己肯定的に生き延びるために必要な教育とは?という問への回答として、新しく能力をつけるという方法は回答にならない。なぜなら、持てる者、持てない者という座標軸で捉えると、必ず持てない者が存在するからである。
 大谷氏が指摘するように、<教育が、持つものからもたざるものへの移動であるかぎりは、論点の「能力主義で勝てない者」に対して、どうやって能力をもたせるかが本質になるが、「能力を持たないまま、いかに生きるか」ということであれば、それは従来の教育の概念から外れているのではないか。「教育」と呼ぶことができるのか。>という問いをもう少し深めたい。
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