【02】『考える練習』第1回レジュメ

第1講-第3講

2014/08/19 発表:大谷隆

 本書は「考えるためのノウハウ」が書かれているわけではない。著者と編集者との対話形式によって「考える」という状態そのものの記述が重ねられている。「考える」とは、自分としてどういう状態になるのか、自分としてどういう行動になるのか、それを掴んでいけるように読みたい。

第1講 自分の頭で考えるには?

「考える」のは「わかる」ためではない。

そもそも「わかる」って言葉に対して、それがどういうものなのかという疑問がない。どういう状態を「わかる」っていうのか、じゃぁ、わかったらどうなるのか、何のためにわかるのか、なぜすぐわからなきゃいけないのか[25]

知識が増えれば増えるほど断定しなくなるはずだよね。[24]

知れば知るほどわからないっていうほうがずっと面白いと思うんだよね。[25]

「考える」方向について

「考える」っていうのは、悪いほうも含めてあらゆる方向に考えることを「考える」っていうじゃない。「考える」ってことを、パズルと同じどんな方向にも考えることとして捉えている。だけどそうじゃなくて、やっぱり神に近づくためにとか、神を知るためとか、神が許す範囲でとか、なにかいい方向に考えようとしない限り、「考える」とはいわないんだよ。[30]

やっぱり本当に「考える」「頭を使う」っていうのは、理想を前提とすることだと思う[41]

「あらゆる可能性を考慮する」ようなことは「考える」ではなく、理想を前提とし、そこへ向かうことを考える。では、考えることができるとは何か。「思考力がある」とはなにか。

ラーメン屋でも大工でも、どんな仕事でも、同業者から一目置かれている人っているでしょう。そういう人たちは仕事の精度を上げたり、新しいことを始めたり、いろんなことをやっている。人と違うことができる、それが思考力があるってことだと思う。思考力っていうのは、そういう生きることとか、世界と個人がかかわるところで展開されるべきものだよ。[37]

思考力っていうのを、ただ理性的なものとか、論理的なものと考えちゃいけない。思考するっていうのは、その人が世界と触れ合うことと捉えないといけない。[38]

「世界と個人がかかわる」とは、パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』でいう「世界を引き受けていく」ことと同じ。

第2講 テクノロジーを疑う

まず読書について。

文学書とか本当の思想書を読むのは時間がかかるけど、ゆっくりしか読めないものは、ゆっくり読めばいいんだよ。そういう本は言語の体系が違うから、読む側がそれに合わせてチューニングしてかなきゃいけない。だから当然、時間がかかる。(はやく読める本は、)自分の中の言語の体系とか概念の体系とかはまったく変わらないんだから、そこに成長はない。[45]

「近代人が浴びた最大の洗脳」として

自分の命が何より大事ってことなんだよね。人ひとりの命が大事って言ってもいいんだけど。[54]

世界と触れ合うということ、世界を引き受けるということは、「自分の命よりも」世界が変わることについて考えること。もちろんこれは「きつい」ことでもある。

でもいちばんきついのは、「お前の子どもが……」っていう話。「お前の子どもだって死んじゃうんだぞ」って言われるときついんだけど、いま1人や2人しか子どもがいないからきついんだけど、昔は死ぬ可能性もあるから、もっとたくさん産んでたわけじゃない。 だから、一部だけ取り上げるような考え方はおかしい。そうなったら、1人や2人じゃなくて5人ぐらい生むようになるし。……いや、この言い方は無責任すぎるな。だから、部分だけの話じゃないから、「お前の子どもだって死んじゃうんだぞ」という脅しの中にすでにワナがあるんだろうな、いまここですぐにはわからないけど。[56]

この部分、まさに保坂は話しながら、考えている。そして「いますぐにはわからない」。

やつらのーー体制とか大企業とか国家とかっていうのは「やつら」って言うのが一番いいんだけどーー思うつぼにはまる。
 それじゃ、そのやつらって誰なのかというと、それはハイデガーが言って、木田元もそう言ってるんだけど、テクノロジーっていうのは勝手に動くんだよ。人間には止められない。やつらというのはそういう、人間をどんどん人間じゃないものにしていくような、人間から尊厳を奪っていくような力学のことだよ。[57]

この「やつら」は、フレイレが人間を「自らに閉じた存在、歴史なき存在=動物」とした状態にしていく力学でもある。

第3講 ぐらぐらしたものをそのまま捉える

孤立の肯定。安定の批判。不安定と「つくる」ことのつながり。

孤立するのが怖いって言うけど、別に孤立は悪いことじゃない。孤立って言うと、自動的に悪い意味にとってしまうけど、江戸時代の日本の鎖国だって孤立でしょう。[67]

現代は「安定がいい」って考え方が当たり前のようになっている。(略)安定志向の生き方は、世の中が安定してないとどうしようもないんだよね。[73]

つくるってことは不安定なことで、その不安定さを乗りこなす感じなんだよね。[74]

フレイレとの共通点

何度か読んだ本ではあったが、今回は、前回のゼミ、パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』との関連性が見えて面白かった。

だけど学校の授業では、時間的にも空間的にも、何かがある時を境に始まりました、終わりました、ここからこうです、これはここまでです、みたいな教え方をするでしょう。[70]

と保坂が批判しているのはまさにフレイレが批判した「銀行型教育」であり、フロムの「ネクロフィリア(死する者への偏愛)」である。フレイレの世界と人間への認識、歴史的に見て未完成であるこの現実と共にある人間もまた未完成で未確定である存在と認識される。[『被抑圧者の教育学』110]

は、保坂の「理想を前提として」「なにかいい方向に考える」ことと同じだと言える。

コメント(山根)

『「お前の子どもだって死んじゃうんだぞ」という脅しの中にすでにワナがあるんだろうな[56]』には驚いた。こういう言葉が「脅し」であり「ワナ」だったのかと。他人を出してきたり、物事を部分で語ろうとするような脅しは自分でも仕掛けているような気がして、そいういう言い方をしたときにはすでに考えていないのだろうと思う。
鈴木氏が遊びと死に関して言及したことについて。こいうったゼミの場というのも一種の遊びだと感じている。今まで考えていたこと、信じていたことが覆るかもしれないという自分の思想が死んでしまう危険性を感じながらゼミに望んでいるという感覚がある。まだ、覆されたくない自分を守りたいという思いがあったりもするが、やっぱり覆った向こう側が見てみたい。
大谷氏も言及しているが、前回まで読んでいたフレイレの本との関連性をみながらこの本を読んでいることが面白い。

コメント(大谷)

この世界はもともと、次の瞬間何が起こるかわからない、自分が死んでしまうかもしれないという不安定なものとして広がっている。その中で、部分的限定的に安定になるような「テクノロジー」が開発されて、それが少しずつ広がってきた。しかし、あくまでも部分的限定的であって、それ以外の広大なベースとなる世界は不安定で満たされている。だから、「自分に関わることの全てを安定させる」という世界をイメージしようとするととても狭い世界に閉じこもることになる。「仕事を辞めると生きていけない」というような狭さ。もともと世界は不安定であるということを意識して、その上でどう生きるかということを考えていくと生きていくことが面白く、そういう生き方を探していくようなことが考えることにつながるのではないか。

鈴木氏の発言「遊びは面白いからする。つまらない遊びはしない」「死ぬかもしれないけど遊ぶ」。死と遊びの関係。死ぬかもしれないということこそが生きているということで、決して死なないということは生きているとは言えないのかもしれない。死、あるいは生と遊びの根本的なつながりについてはもう少し考えたい。

コメント(高向)

考えるのは分かるためではなく、個別のキーワードが有機的につながる状態になることを含む。考えるとは、神に近づくためとか、神を知るためとか、神が許す範囲でとか、なにかいい方向に考えようとしない限り考えるとはいわない[30]という意味の神とは、理想、宇宙、原理というように人間の存在を超えたモノとして捉えることもできるのではないか。それは、理想に近づくという方向でのみ考えるという事を可能にするともいえる。だから、理想主義でOK。それは理想主義だ!という意見にも、理想主義で何が悪いと反論可能である。思考するということは、世界と触れ合うこと[38]。未完成の世界を受け入れるということ。
「体制とか大企業とか国家とっていう「やつら」やテクノロジーは人間から尊厳を奪っていくような力学」や「ワナ」をはたらかせる機能をもつ。[56-57]その構造は、フレイレのいう「抑圧者は、抑圧しようと意図せず、抑圧することを可能とする抑圧者の力学」と共通している。
安定志向は、社会が安定していてはじめて成り立つ。しかし、社会には多様な問題がある。(貧困、いじめ、労働環境、自然破壊による公害の問題、性の問題、障害者問題、南北問題、男女平等問題、高齢者問題など)したがって、安定しているという前提はそもそも成立しない。よって、安定志向が志向するその先の安定とは、一度その安定を手に入れたとしても、それを持続させるのは非常に困難である。そこには、偶然とかラッキーとか、様々な要素が関わってくる。つまり、社会は不安定だからこそ、その理解の上でどう生きるか、という視点が大事ではないだろうか。保坂は、安定志向に対して、「ぐらぐらしたものをそのまま捉える」ことの感覚として「不安定さを乗りこなす感じ」と表現しているが、私にはその表現が非常にしっくりきた。乗りこなすためには、練習や技術がいる。乗りこなすための、教育ってどんなのかな・・・と考えた。

コメント(鈴木)

「安定」を求め、「不安定(ぐらぐらしたもの)」を避けたくなる心理について
安定を求める心理は、「死にたくない」という欲求に関わっている気がする。そう考えると「不安定(ぐらぐらしたもの)」を避けたくなる心境は抱いて当然のもので、むしろ気をつけないといけないのは「安定したいという欲求を満たしてくれるテクノロジー(文中の「やつら」に該当するのだろうか)」に寄りかかりすぎることなのではないか。大谷氏から「部分的に安定させることはできる」という発言があった。著者のいう「不安定さを乗りこなす」とは、ものごとは不安定であるという前提に立ったうえで、「こうなりさえすれば安定」という幻想に惑わされず、何を、どのように、どの程度安定させているのかに自覚的であることをいうのではないか。
「遊び」と「死」について
議論する中で、本文中に全く登場しなかった「遊び」というキーワードがふと浮かんできた。「自宅の一部の電化製品を手放した」という話をおもしろそうに語る大谷氏を見て、私は知人が口にした「命がけで遊ぶ」という言葉を思い起こしていた。「不安定・ぐらぐら」した状態を「乗りこなす」イメージと「命がけで遊ぶ」ことのイメージの重なり。不安定さを覆い隠すのではなく、不安定さを直視して身を投じて、自分で確からしさを獲得していくこと自体をおもしろがっているような、そんな印象を受けた。
 そしてこの「不安定さ」は「死」というイメージとの重なりも感じられた。本文中の「室内猫は外に出した方が幸せ」、「昔の人は幼くして死ぬ確立が高かったため子どもをたくさん産んでいた」という話。こうしたエピソードは「死」や「不安定さ」をそこにあるものとして受け入れた上で、何かにまるごと任せてしまうのでなく、自分で「乗りこなしている」感じがする。不安定であること、不安定さを乗りこなすことと、「遊ぶ」こと、そして「死」との関係についてはもう少し考えたい。
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